哲学が「体育会系」の学問だと確信できる理由

知識取得ではなく自らの感覚変化こそ重要

しかもこれは、輪になって座っている人たちがいっしょに感じているような印象がある。もちろん同時に同じものを感じているとは限らないし、そんなことは確認しようがない。それでも、その人たちとその場でいっしょに考えていなければ、そもそもそのような感覚をもちえないのは事実である。そういう意味で、いっしょに感じている、と言うことができる。

このような〝哲学的感覚〞を経験するのに、哲学の知識は必要ない。あれば助けになることもあるが、かえって妨げになるような気もする。知識としての哲学には、体験の次元がさほどなくて、ただたんに概念間のつじつま合わせに終始していても、どこに何が書いてあるかを言い争っているだけでも、よく分からない難しい言葉を使って「オレって難しいこと言えるんだぜ」的に悦に入っているだけでも、「哲学」だと言えてしまう。

「体験」としての哲学

哲学の知識を使っているから哲学的になるのだと思い、感覚のほうに意識を向けなくなるなら、知識はかえってないほうがいいかもしれない。私自身は、哲学の知識を使うかどうかよりも、感覚的に哲学的かどうかのほうが重要だと思っている。

『考えるとはどういうことか 0歳から100歳までの哲学入門 』(幻冬舎新書)書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします

哲学的であることが体の感覚で分かるということは、「体験」としての哲学というものが、知識として成立するずっと手前にあるということだ。

人生のどこかで哲学的な問いに目覚め、知識としての哲学を求める人も、そこに向かわなかった人も、そもそも哲学に出会わなかった人も、もともとどこかでそういう感覚を味わったことがあるにちがいない。だからこそ、「対話」という形で哲学を体験した時に、多くの人が何か特別な経験をした感じがするのではないか。

そうした哲学の体験は個人的であり、主観的である。とはいえ、他者と共有できないわけではない。個人的であると同時に、体験としていっしょに感じている文字通りの「共感」が起きる。だから哲学対話は、共同で思考の深みと広がりを感じる哲学なのである。

幻冬舎plusの関連記事
健康のために大事なのは「減らすこと」
「なんとかなるさ」の覚悟を持とう
裏アカウントはときに、生きる救いにもなる
ライフの人気記事
トピックボードAD
関連記事
  • インフレが日本を救う
  • コロナ後を生き抜く
  • コロナショック、企業の針路
  • スージー鈴木の「月間エンタメ大賞」
トレンドライブラリーAD
アクセスランキング
  • 1時間
  • 24時間
  • 週間
  • 月間
  • シェア
トレンドウォッチAD
スペシャルインタビュー<br>元ラグビー日本代表・畠山健介

今年から米メジャーリーグ・ラグビーのチームに所属、華やかな選手生活とは裏腹に幾多の葛藤を乗り越えてきた畠山選手。「ラグビーファンの拡大には、リーグのプロ化が不可欠だ」。新天地にいる今だから見えてきた日本ラグビー改革論を熱く語ります。