フェラーリと筋ジストロフィーの意外な関係

エンツォの息子、ディーノが送った人生

それでも、しばらくはレースに出て爆音を響かせていたが、3年後の1932年にディーノが生まれると、ドライバーからは足を洗った。果たせなかった夢を自分の代わりにその子に託すことにしたのだ。ディーノがハンドルを握り、メルセデス・ベンツにも負けないフェラーリのサポーティング・チームがディーノを支える……。

ところがディーノは体が弱かったのだ。本来ならば遊び盛りの幼児の頃も、いつまでもよちよちとバランスが悪い歩き方で、転ぶとすぐには立ち上がれなかった。どう見てもレーシング・マシーンの過酷なドライビングに耐えられるような体つきになりそうもない。小学校の終わりの頃には、歩くのもおぼつかなくなってしまった。そこで、父のエンツォは方針転換し、ディーノには頭で勝負してもらい、父の会社の跡とりにすることにした。

若くして筋肉が衰えていった

その頃、エンツォはアルファロメオ社と縁を切り、フェラーリ社独自のレーシング・マシーンの製造を始めた。1950年には、第1回のフォーミュラ1(F1)レースに参戦して、翌年には早くも優勝するという快進撃であった。

第二次世界大戦も終わって、世界は明るさを取り戻し、モータースポーツ愛好家も増えてきていた。エンツォは、優勝したマシーンをもとに一般向けのスポーツカーも開発して販売し、ビジネスも好調であった。そこで、ディーノには自分の事業を継いでもらおうと、スイスの学校で自動車工学を学ばせ始めた。

が、ディーノは筋肉が衰えて力がなくなって痩せ、体力がなくなって留学は2年しか続けられなかった。やむなくイタリアに戻し、大学で学ばせてからフェラーリ社に入社させた。そして、経験と知識をつけるために、1500㏄、6気筒のV型エンジンの開発チームに加えた。これは後にF2レース車のエンジンとして使われ、さらに後には大型の改良型がF1マシーンにも搭載された。が、これらの完成をディーノが見ることはなかった。

彼はデュシェンヌ型筋ジストロフィーと診断されて入院したが、最期の日の直前まで、病室で技術者と、6気筒エンジンについてディスカッションしていたという。1956年6月、アルフレード・フェラーリは24歳で他界した。

フェラーリ社は、志半ばで若くして逝ったディーノのメモリアル・カーを作った。駆け出しのエンジニアながらも、彼が開発に参加したV型6気筒エンジンを搭載したスポーツカーをディーノと名付けて世に出したのだ。

彼へのメモリアルはそれだけではなかった。エンツォは1978年にミラノ大学医学部の中にツェントロ・ディーノ・フェラーリ(ディーノ・フェラーリ・センター)という研究所を開設した。この研究所は筋ジストロフィーなどの難病の研究と啓発活動をしていて、イタリアにおけるその分野でのメッカとなっている。

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