セクハラかそうじゃないのか曖昧すぎる境界

建前と内輪だけの本音が激しく引き裂かれた

例えば、私がセクハラを受けた経験を思い出すと、後ろめたさも同時に覚える。年配の男性にごはんに誘われたとき、私は彼が純粋に私の経験を聞きたいと切望していると信じ切っていたのか。彼より20歳も若い私の意見は、それほどまでに聞く価値がある大局観を持っているのだろうか……彼が私に対して、多少なりともセクシャルな好意を持っていると想定すらしないのなら、私は相当ナイーブだということになる。

そう思うと、私は自分も共犯者のように思えて、後ろめたさを感じる。だから、セクハラは恥ずかしいし、後ろ暗いし、告発しにくいのだ。

「そんなことに後ろめたさを感じる必要なんてなかったんだよ」と、表立って皆から慰められるのは分かっているけれど、多分、そう言ってくれる誰かさんの顔には「隙あり」っていう表情が伺えちゃうし。っていうか、私が自分自身をそう思っちゃうし、だから絶対に#MeTooなんて、私、言い出せないわ、という感覚がある。

私たちがすべきことは…

5. 個人攻撃で終わらせていいの?

ここだけははっきり言いたいが、私はセクハラ被害者の落ち度を話したいわけでは、絶対にない。それだけは言いたくない。そんなことじゃない。

個別の事情や気持ちなんて全く分からないし、被害者が匿名を望んでいる以上、それを勘ぐるべきではない。ただ、もしそこに、特ダネを取ろうという記者としての功名心や、この記事を公表してやろうという復讐心が、多少なりとも混じったとしても、だから何だと言いたい。被害者が聖女である必要なんて全くない。

と同時に、これはまだ慎重な検討が必要なところだから、声を潜めて発言したいのだけど、セクハラに関する社会のコードが明確に確立する前に、「ここまではいいだろう」という旧時代の感覚に従って、相手の嫌悪感に無頓着になっていた下品で有害な男を、その愚かさゆえに、ことさらに重く処罰する、それで終わらせるっていうのもなんだかなぁと、私は思う。公開処刑を見て、自分は引っかからなくてよかったと日々の幸せを確認するなんて、小市民的じゃん?

法律的には、刑罰を受ける前提として、「ここまではOK、ここから先はアウト」というラインが明確に引かれていかなくてはならない。ところが、セクハラにおいては、このラインがきわめて曖昧。世の中の空気感で、社会的に抹殺されるという極めて重い制裁を受ける。これは公平なのだろうか。

セクハラに関するこの訴えを、ある勇気ある女性の地位ある男への胸をすくリベンジにして終わらせてはいけない。被害者・加害者の人格に関する個人的な興味という、そういうゴシップ的な渇きが癒されると、私たちは日常へと戻っていく。誰もこんなニュースに関心を持たなくなる。だけど……

ある程度いいじゃん的な本音と、どこまでもクリーンであるべきという建前の2つのセクハラのラインは、大きく引き裂かれたまま。私たちがすべきことは、この間のどこが、社会にとってリアルに守ることができる線なのかを、時間をかけて話し合うことではないか。正論で社会の隅々まで照らすのは、社会に無理を強い、どこかでバックラッシュが生じる。どこに線を引けるのか―― 一筋縄ではいかないこの問題を、これをきっかけにゆっくりしっかり話しはじめなくてはならない。

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