歴史を刻んできた六本木界隈

江戸時代の六本木は、その周りをかこむ赤坂や青山、飯倉といった場所同様、武家屋敷がならぶエリアだった。六本木通りなどの名称はその頃からあり、また、今回注目している七丁目は昭和42年頃まで龍土町と言われ、江戸切絵にもその表記が確認できる。

武家屋敷の広大な区画と、庶民の住まいが混在するその歴史は、現在でも、ビル群や大使館、大学、文化施設などと、商店・住居がバランスする街並みへ通じるものがある。

江戸切絵図

赤坂から現在の六本木方面。多くの武家屋敷が並ぶ整備された街であった。(江戸切絵図 赤坂絵図/国立国会図書館デジタルコレクション)

空撮写真

1947年9月の六本木。終戦間もないころ住宅街だった同地は見事な発展を遂げることとなる。(写真/国土地理院)

明治以降、広大な敷地は軍の施設に適応することとなる。第二次大戦を境に米軍関連の施設や防衛庁舎となるが、その後は文化的個性を強く発するエリアに変貌する。

たとえば現在の六本木交差点あたりに作られた俳優座。昭和29年4月のことだ。劇団員の映画やテレビへの出演料などで建てられた劇場は「芝居を上演するのに適したように舞台裏を充分にとり、いかにも自ら使用する劇団のつくった劇場にふさわしい設備をととのえている」(港区史)と評された。ちなみに個性派として知られた地井武男と原田芳雄は同じ俳優座養成所15期卒業生だった。

また、少し南に離れるが、麻布方面に目を向けるとイタリアンレストランの草分け、レストランキャンティも見えてくる。昭和35年4月の創業以来、映画監督や作家、音楽家、デザイナーなど各界の文化人が集まる「伝説のレストラン」だ。キャンティはパリにあるカフェ・ドマゴのような文化交流のサロンとなっていくが1980年代には「キャンティ族」という言葉も生まれ、店には背伸びをしたい年頃の若者が夜な夜な集うようになる。彼らはキャンティで大人の世界に触れ、一流の所作を学んだ。文字通りキャンティは文化の発信地になっていた。

そして六本木七丁目。
このエリアが戦後、ゆるやかに、また豊かな発展を遂げつつある。

明治22年に麻布区材木町(港区六本木七丁目)へ神殿が移設された出雲大社東京分祠など歴史情緒を感じる空気、そして落ち着いた住宅地を抜けると、緩やかな坂の上に、国立新美術館をのぞむ。もともと東京大学生産技術研究所と物性研究所が存在していたこの土地は、古くから学問や研究の盛んな場所であった。

戦後の文化芸術の発展にともない、設立が熱望された国立新美術館。同館の企画展は多くの人気を集めることで知られ、年間来場者数は120万人に届く勢いだ。
また、そのとなりの敷地に設立された政策研究大学院大学では、公共政策や開発政策、地域政策、文化政策などのプログラムが設置され、現役の官僚や地方公務員たちが政策研究や専門的政策立案を学んでいる。

このエリアを俯瞰で見れば、他にもさまざまな開発が進む。防衛庁の跡地に建設され、港区の顔となった東京ミッドタウンの向かいには、有名ラグジュアリーショップやオーガニックな素材で日本上陸が話題になった人気のコーヒーショップをテナントに構える商業施設が間もなく誕生する。六本木七丁目のあたらしいランドマークの出現だ。

歴史と先進性の共存する新しい街へと変貌を遂げようとしている六本木七丁目。文化芸術と流行の交差点。それでいて都会の喧騒とは一線を画す。こうした風土を楽しむことができるのもこの街の魅力だ。

国立新美術館

国立新美術館は、文化的な街の象徴として六本木の顔となっている。(国立新美術館)

岡野ご夫妻

お話を伺った岡野さんご夫妻

文化人の愛した店「龍土軒」主人が語る六本木7丁目の魅力 龍圡軒四代目主人 岡野氏

龍圡軒といえば、明治33年に新龍土町12番地(現在の港区六本木7丁目)で開業した東京で最古の西洋料理店のひとつ。国木田独歩や島崎藤村など、作家や翻訳家、画家など多くの文化人が集まり「龍土会」と称し親睦を深める店だった。現在の店主、岡野さんは4代目。かつての龍土町から現在の西麻布へ移転したが、その距離は目と鼻の先。今も当時からのお付き合いが続いているお客様が多数訪れるそうだ。
「龍圡軒では時代にこびることなく、愛情のこもった料理を追及している」と客評を得るご主人に、六本木七丁目界隈の変遷をお聞きした。

―長年この地に店を構えていて、街や暮らす人の変化は感じますか?

 街の雰囲気は大きく変わりましたね。明治のころ、この近くには伊藤博文のお屋敷があって、その界隈は日本とはおよそ思えないほど、洋館が立ち並ぶ異国情緒あふれるエリアでした。乃木神社の近くにはロシアの領事館があり、ミッドタウンの前はローマ法王庁だった。そうした施設がこのエリアには集まっていたんです。1980年代以降は再開発によって姿を消していきましたが、いまもこの街が整えられた区画であることは間違いありません。
 また、この街で暮らす人たちにも大きな変化が見られます。かつては宮家や華族、実業家のお屋敷があったこの街。軍の施設も多く存在していました。お店ではそういったご縁は世代を超えて今も続いていますが、戦後からバブル期を経て、今では若い人・家族たちも街に多く集まるようになりました。
 開発と商業的な施設が急激に増えた時代からは考えられなかったことですが、夕方になれば子供の声が聞こえ、休日になれば若者たちがジョギングや散歩にいそしんでいる、そんな空気なんです。
 何がこの街に人を惹きつけるのか。都会の中心にも関わらず緑が多いことや、飲食店やスーパーなどが充実していて暮らしやすいこと、六本木の他のエリアに比べて大きな開発がなく、昔ながらの土地柄が残っているなどさまざまな理由が考えられます。暮らす人たちに多様性が生まれたことで、街としての魅力は高まっていると思います。

―このエリアに望むことをお聞かせください。

 画一化の進む日本では大人がおしゃれをして楽しめる場所が少なくなりました。ヨーロッパのような佇まいの楽しみ方、遊び方ができる場所が今後は増えていって欲しい。この六本木7丁目界隈はそうした可能性がまだ残されている数少ないエリア。さまざまな人を惹きつける場所として今後も進化を続けて欲しいと思います。