(第86回)森鷗外の知恵袋(その2)

山崎光夫

 鷗外先生の作品に『知恵袋』と題する処世術を説く一書がある。『森鷗外の「知恵袋」』(小堀桂一郎訳・解説。講談社学術文庫)を参考に、今回は夫婦関係の知恵を探ってみたい。

 相思相愛で結ばれた夫婦でも長い年月が経つうちには、種々の理由で喧嘩、齟齬(そご。ゆきちがいのこと)、諍(いさか)い、憎しみ、悲哀など、関係の悪化が生じるおそれがある。それはどの夫婦にも内包している。いかに危機を乗りきるかである。

 『知恵袋』では、結婚生活の開始は一つの事業を始めることであり、夫婦が最後まで添い遂げるのはその事業を維持し健全に経営してゆくことに当たる、と述べている。

 だが、不和が高じて、家庭が地獄と化したり、離婚が想起されたりする事態も生じてくる。
 『知恵袋』は、その決定的な場面を回避する方策を提示している。
 「それはただ、ひとりを慎(つつし)む、に尽きる」
 という。

 具体的には、一人でいるとき--、夫にとって妻が、妻にとって夫が、あるいは、第三者がいないときでも、ぼさぼさの髪でいたり、垢で汚れた服を着ていたりしてはならないという。身だしなみを整え、おのれを律するのは最低限の慎みであるのだ。

 では、その慎みの根本は何であるかというと、それは「敬(けい)」の心だという。

 だが、「敬」を実践するのは、久しく馴れ親しんできた間柄では、友人であれ、夫婦であれ、かなり難しいことである。

 そこで、こうした呼吸を心得たある人は、公務がなくて一日中ひまという日には、終日、妻と同じ部屋にいて顔をつき合わせているといったことはしない。別の部屋で過ごしたり、散歩に出かける時間を作ったりする。また、公用にかこつけたり、私用を作っては、ちょっとした旅行をして、2、3日家を留守にするのである。こうして、お互いが鼻につくといった事態をあらかじめ防ぐのである。

 これは、まさに、現代流、
 「亭主元気で外がよい」
 の実践である。
 「敬」して遠ざけるのは、夫婦円満の秘訣のようだ。

 『知恵袋』は、人生は苦しみ多きものであると説く。夫たるもの、世渡りをするうち、人知れぬ苦労や禍、思いがけぬ事故、自業自得の災難などに遭い、苦労をかかえる場合がある。
 こうした不運・不遇に遭遇したとき、『知恵袋』は、隠しおおせると思うかぎりは、これを妻に話すなという。おのれは不動の決心を固めて巌(いわお)のごとく微動だにせず乗りきれと説く。そして、もし悲哀が極まったら、一人静かに泣いて、涙で憂いを流し、気を取り直すのがよいという。

 では、そのときの活力の源は何かというと、それは、「希望」である。禍が永遠に続くことはありえない。梅雨空の闇夜にもなお月の光の雲間からさし出でることのたとえもある。希望を失うな、という。

 ところで、この『知恵袋』の底本は、ドイツの著作家、クニッゲの『交際法』(1788年刊)である。200年以上前、男社会一辺倒だった時代の著作である。

 21世紀の今日、夫が妻に内緒で禍をかかえるのは時代にそぐわない部分もある。夫婦にとってお互いが「希望」であれば、これに優る”知恵”はないのではないかと思うのだが……。
山崎光夫(やまざき・みつお)
昭和22年福井市生まれ。
早稲田大学卒業。放送作家、雑誌記者を経て、小説家となる。昭和60年『安楽処方箋』で小説現代新人賞を受賞。特に医学・薬学関係分野に造詣が深く、この領域をテーマに作品を発表している。
主な著書として、『ジェンナーの遺言』『日本アレルギー倶楽部』『精神外科医』『ヒポクラテスの暗号』『菌株(ペニシリン)はよみがえる』『メディカル人事室』『東京検死官 』『逆転検死官』『サムライの国』『風雲の人 小説・大隈重信青春譜』『北里柴三郎 雷と呼ばれた男 』『二つの星 横井玉子と佐藤志津』など多数。
エッセイ・ノンフィクションに『元気の達人』『病院が信じられなくなったとき読む本』『赤本の世界 民間療法のバイブル 』『日本の名薬 』『老いてますます楽し 貝原益軒の極意 』ほかがある。平成10年『藪の中の家--芥川自死の謎を解く 』で第17回新田次郎文学賞を受賞。「福井ふるさと大使」も務めている。
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