伝説の床山は、なぜ名力士たちに慕われたか

朝青龍の"日本の父"、床山の在り方を変えた

床山の地位や技術の向上に尽力したのも、床寿さんの功績です(写真提供:山野美容芸術短期大学)
空前の人気を博す大相撲。初場所では、10年ぶりとなる日本出身力士・琴奨菊の優勝もあり、さらに盛り上がりに拍車をかけている。
その相撲人気を支えている裏方には、数々の名力士たちの心身を支え、かつて朝青龍が尊敬を込めて「大先生」とまで呼んだ”伝説の床山”がいた。
前編:伝説の床山、後世に残る「神業」ができるまで

 

朝青龍はもともと若松部屋に所属していたが、2002年に若松部屋は高砂部屋と合併した。その結果、朝青龍が床寿さんと同じ高砂部屋の所属となったのである。

そのころ、朝青龍の大銀杏は別の床山が担当していた。だが、横綱昇進後、ケガで初めて休場していたときのこと。ある日、朝青龍が床寿さんのところに来て、自分の大銀杏を担当してほしいと願い出てきた。

このとき床寿さんは朝青龍に対し「横綱、あなたが本当に俺でいいと思ってくれるなら結いますよ」と話し、快く引き受けた。以来、床寿さんは定年退職するまで朝青龍の大銀杏を結い続けた。

2人はたびたび酒を酌み交わしていたという。あの強気な朝青龍が床寿さんの前では弱音を吐くこともあった。朝青龍に対しても遠慮せず、時にはいさめるようなことも言う床寿さんに対し、荒くれものといわれていた横綱は床山としても人間としても、尊敬の念を抱いていたのである。

2009年初場所で優勝したとき朝青龍は、すでに退職していた床寿さんを優勝パレードのオープンカーに乗せて恩返しをした。2010年10月に朝青龍の断髪式が行われたときも、大銀杏を結ったのは床寿さんだった。あの気性の激しい朝青龍が、床寿さんのことは「日本の父」と敬愛していた。

床寿さんなくして、大関小錦は生まれなかった

床寿さんが活躍していたころの高砂部屋には、初の外国出身関取となった高見山もいた。1982年、「ハワイ相撲文化100年記念」のイベントがホノルルで開かれたとき、その高見山とともに床寿さんもハワイに同行。このとき現地の人が高見山に一人の青年を紹介した。後の小錦である。

ただ小錦の母親は、自分の息子が日本に行って相撲取りになることに難色を示していた。そのため小錦の気持ちも揺れていた。そこで床寿さんは日本への飛行機代と小遣いを小錦にわたすよう、高見山にアドバイスしたという。これでようやく小錦の気持ちも固まり、日本行きを決意した。

床寿さんがハワイに行かなければ、大関小錦は誕生していなかったかもしれないのだ。

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