(第85回)森鷗外の知恵袋(その1)

山崎光夫

 本年、2012年は文豪にして軍医だった森鷗外の生誕150周年にあたる。数々のイベントが組まれ、11月には、東京都文京区の旧鷗外邸「観潮楼(かんちょうろう)」跡地に記念館がオープンする。

 わたしはその森鷗外記念会の評議員を昨年から務めるようになった。高校時代に鷗外作品を愛読したころを思い出すと、評議員は意外であり、夢のような話でもある。

 わたしが雑誌記者を始めた30歳前後のころ、先輩の同業者から、

「文筆で生計をたてたいと思うなら、鷗外の文章を研究するとよい。その神髄を体得できればプロの物書きになれる」
 と言われたものだった。

 永井荷風が同様の主旨を随筆で書いていたのを読んだことがある。先輩はこれを読み同感だったので、わたしに伝えたのかもしれない。いわば文筆業のとば口で得た助言だった。

 いずれにしろ、それ以来、さらに鷗外研究に拍車をかけた。「神髄を体得」とまでは行かないが、自分なりに感得した部分があった。そして、39歳で処女作品集を単行本化した。以来、65歳の今日まで、ペン一本で生活している。何とか文筆で生計をたてて来られたのは、鷗外の文章を「感得」したからに違いない。こうなると、鷗外に足は向けて寝られないし、鷗外などと呼び捨ては失礼にあたる。「鷗外先生」であり、「鷗外さまさま」だ。

 鷗外先生の作品に『知恵袋』と題する処世術を説く一書がある。ヨーロッパの交際術書が下敷きとなった書物である。箴言と警句がちりばめられていて、迷える現代人にとっても、荒海の羅針盤、暗夜の一灯になるのではないかと思える内容である。小倉に左遷された時期に書かれた意義深い内容といえる。わたしの愛読書でもある。

 『知恵袋』の中に、「退屈」について以下のような内容の記述がある。

 退屈は忌むべき、また、嫌うべきものである。退屈を上手に克服できる人は処世を心得た交際家と判断できる。苦楽を上手に交代させ、遊びは程よく楽しみ、快楽は慎み、節制せよ。楽しみ事はできるだけ高尚なものに親しむように。飲食の楽しみ、性愛の快楽、利得の喜びなどは、度を越すと身の破滅となる。

 「終(つい)に文学美術の受用の永遠なるに若(し)かず」
 文学や美術といった高尚な楽しみ事は、退屈を紛らす安易で過度な娯楽よりは優っている、と結論づける。

 退屈に対処するには、苦楽の内容も大いに考える必要があるようだ。

 「独り楽しむ事」の項で、1人いて退屈するのは自分で自分に厭(あ)きたからだとする。この退屈を防ぐ方法としては、書物から、また、生活から、新しい思想を取り入れて、自分が自分と語る時の話題とするとよい。こうすれば、「独り楽しむ事」ができるとしている。

 鷗外先生が日ごろ念頭に置いていたのは書にものこした「自彊不息(じきょうやまず)」(みずから休みなくつとめ励むこと)だった。退屈という2文字を忌み嫌い、疾風怒濤(しっぷうどとう)の時代を生き抜いた。
山崎光夫(やまざき・みつお)
昭和22年福井市生まれ。
早稲田大学卒業。放送作家、雑誌記者を経て、小説家となる。昭和60年『安楽処方箋』で小説現代新人賞を受賞。特に医学・薬学関係分野に造詣が深く、この領域をテーマに作品を発表している。
主な著書として、『ジェンナーの遺言』『日本アレルギー倶楽部』『精神外科医』『ヒポクラテスの暗号』『菌株(ペニシリン)はよみがえる』『メディカル人事室』『東京検死官 』『逆転検死官』『サムライの国』『風雲の人 小説・大隈重信青春譜』『北里柴三郎 雷と呼ばれた男 』『二つの星 横井玉子と佐藤志津』など多数。
エッセイ・ノンフィクションに『元気の達人』『病院が信じられなくなったとき読む本』『赤本の世界 民間療法のバイブル 』『日本の名薬 』『老いてますます楽し 貝原益軒の極意 』ほかがある。平成10年『藪の中の家--芥川自死の謎を解く 』で第17回新田次郎文学賞を受賞。「福井ふるさと大使」も務めている。
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