「阪急」隆盛の背景は多角化だけでなかった! 社史が描き出す知られざる創業期の大転換点

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阪急梅田駅周辺(写真:PIXTA)

具体的な年月日を付け加えると、阪神急行電鉄への社名変更は1918(大正7)年2月4日のこと、いっぽうで阪神直通線の開業は予定よりも遅れて1920(大正9)年7月16日のことである。社名は企業の考え方を示すものでもあるから、阪神直通線の営業を中心に据えた社名に経営陣のみならず株主もまた大きな期待を寄せていたのであろう。

蛇足ながら、いま引用した個所には阪急電鉄の本音が現れている。それは、「宝塚、箕面両線を支線とし、阪神直通線を本線として」という記述だ。阪急電鉄も阪神直通線の存在なくして自社の発展はあり得なかったと考えていることがよくわかる。

成功の条件がそろっていた阪神間

阪神直通線の開業翌年度となる1921(大正11)年度の阪神急行電鉄の収支状況を見てみよう。収入は732万7748円(現在の貨幣価値に換算して42億5700万円)、支出は448万1829円(同26億0300万円)、恐らくは売上総利益であろう利益金は331万6213円(同16億7000万円)、筆者計算の営業利益は284万5919円(同16億5300万円)と先に挙げた1915年度の数値と比べると格段の成長を遂げている。

利益金の処分状況を見ると、配当金には54.3%に相当する180万円(同10億4600万円)を充当するといった具合に相変わらず多い。しかし、利益金の絶対的な金額が増えたことで1921年度下期の後期繰越金は25万5526円(同1億4800万円)と過去最多を記録した。

根本的な疑問として、なぜ箕面有馬電気軌道は阪神直通線を敷設しようと考えたのであろうか。その答えも1916年4月の臨時株主総会での小林の発言として『50年史』に掲載されている。

「阪神両都市及びその沿道町村は年々驚くべき発達をし、将来なおこの傾向は駸々(しんしん)として休止する処なきを信じる。しかるにこれに反して阪神間の交通機関は、鉄道院線(筆者注 現在のJR西日本東海道線)ならびに阪神電鉄ありといえども、今やすでに極度の能力を尽しおるものというべきなり。」(『50年史』15~16ページ)

この言葉は創業時の阪急電鉄が発展を遂げた理由はもちろん、鉄道事業が成功する条件を明確に示したものだ。
 

梅原 淳 鉄道ジャーナリスト

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うめはら じゅん / Jun Umehara

1965年生まれ。三井銀行(現・三井住友銀行)、月刊『鉄道ファン』編集部などを経て、2000年に独立。著書多数。

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