NHK「あさが来た」、女性企業家の功績とは? 銀行、保険、炭鉱、紡績など多分野で足跡残す

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明治維新後は、実家の三井が薩長側についたため加島屋も薩長側につく。維新後には、貨幣制度の不安定さも加わり、経営は難しい局面を迎えるが、浅子は加島屋の難局を乗り切る。この頃、五代友厚とも接点をもち、また渋沢栄一との縁にも恵まれる。そして、浅子の企業家マインドは、両替商を1888(明治21)年に加島銀行へ蝉脱させるとともに、石炭の輸出から炭鉱の継承へ、さらには紡績会社や保険会社の経営へと多角的に展開する。

炭鉱事業では、荒くれ者を相手にするためか、懐中にピストルをしのばせて、事業の改革に着手し、優良経営へと転換させる。1889(明治22)年設立の尼崎紡績の経営では、夫の信五郎が初代社長に就く。同社の工場がマンチェスターで紡績技術を学んだ菊池恭三の指導を受けたもあって、生産上の実績を上げる。同社は、その後、摂津紡績との合併をへて、大日本紡績となる。現在のユニチカである。

保険事業では、9代広岡久右衛門が社長を務めていた朝日生命、護国生命、北海生命が分立競争の弊を避け経営の基盤を固めるために、1902(明治35)年に合併して大同生命となる(現存)。「小異を捨てて大同につく」から社名がつけられた。

なお、この朝日生命は、そもそもは真宗生命として設立された。現在の朝日生命は、資生堂の福原有信などが創設に関わった帝国生命としてスタートしており別の会社である。

貴賤を問わず人格・才覚を見抜いた

広岡浅子は、貴賤を問わず、人格・才覚を見抜くことに長けていた。加島銀行には祇園清次郎や星野行則の2人が浅子の抜擢によって入行する。この2人は加島銀行の経営を支えるとともに、大同生命の経営にも携わる。

星野は、開明的知識人ともいえる人物で、経営学や経営工学などで初学者が必ずといってよいほど学ぶ「科学的管理法」の始祖・テイラー(F.W.Taylor)の著書の最初の体系的な邦訳書『学理的事業管理法』を1913(大正2)年に上梓した。また日英同盟の期限を控えて日本の財界人が1921~22年(大正10~11)年に欧米を訪問した英米訪問実業団(団長は団琢磨)のメンバーの1人でもあり、海外事情に通じた経済人であった。

広岡浅子への男尊女卑への反骨と人間への眼差しは、さらに女子高等教育機関の創設へと向かう。先進諸国に比べて遅れていた女子高等教育の必要を訴える成瀬仁蔵の真摯さに心打たれた浅子は関西・東京の政財界の主立った人物に協力を求めて奔走する。

設立発起人(58名)や創立委員(32名)として名を連ねた人物は、実家の三井のほか、三菱、住友の3大財閥の関係者、渋沢栄一、大隈重信、西園寺公望など当時の日本を代表する政財界人であった。日本柔道の生みの親、嘉納治五郎もその1人であった。約7年の準備期間を経て、1901(明治34)年4月、三井から土地が拠出された目白ヶ丘の地に日本女子大学校が開校された。

1904(明治37)年に夫・信五郎を喪ってから、浅子はビジネスの世界からは遠ざかる。その5年後には乳がんの手術を受けるが、この頃は文筆活動が主となる。また62歳となった1911(明治44)年には、クリスチャンとなり、YWCAの活動にも関係する。また優秀な若い女性を集めて夏期勉強会も開催する。その中には、同じNHKの連続TV小説「花子とアン」で主人公のモデルとなった村岡花子や女性活動家の市川房枝などがいた。そして1919(大正8)年1月14日、70年の天寿を全うする。

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