東電・吉田昌郎が背負った「重すぎる矛盾」 その生涯を追って見えてきたもの<後編>

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吉田氏はその後、福島第一原発のユニット所長を経て、2007年4月に本店の原子力設備管理部長に就任した。その3カ月後に、新潟県中越沖地震が発生し、柏崎刈羽原発が広範囲かつ深刻な損傷を受け、約3年間をかけて、徹底した改善策を実施する大仕事に取り組んだ。

東京電力も規制当局も、何をするにも原発の稼働ありきを前提に動いているように見受けられるが、安全性に疑問が生じた場合は、先ず、運転を停止し、安全が確認されてから稼働することを考えてもよいのではないか。

――東京第5検察審査会議決書(平成26年7月23日)

 

吉田氏が原子力設備管理部長だった2008年3月、社内の土木調査グループから、国の研究機関である地震調査研究推進本部の長期評価を用いて試算したところ、福島第一原発が15.7mの津波に襲われる可能性があるという報告がなされた。

しかし、吉田氏を含む東京電力の経営陣は、そうした津波の発生確率は1万年から10万年に1回程度で、防潮堤建設にも数百億円の費用がかかることを主な理由に、対策を打たなかった。

これについて、去る7月17日に出された東京第5検察審査会の2度目の議決は、「福島第一原発の敷地南側のO.P.(注・小名浜港工事基準面)+15.7mという津波の試算結果は、原子力発電に関わる者としては絶対に無視することができないものというべきである」と断じ、勝俣恒久(当時社長)、武黒一郎(同副社長)、武藤栄(同常務)の3氏を業務上過失致死容疑で強制起訴されるべきとした。吉田氏も生きていたら、起訴されていた可能性がある。

ただ、当時の社内のやり取りだけを見ていたのでは、彼らがなぜ津波対策を怠ったのか、十分には解明できない。

コストカットの圧力

注目すべき点は、東電が永田町、霞が関と強い結びつきを有する一方、彼らから恒常的に電力料金の値下げを求められ、社内でコストカットと原発稼働率向上の嵐が吹き荒れていたことだ。

コストカットに関する、吉田氏の入社以降の主な動きは次の通りである。

1982年6月、東電はコストダウン方策推進会議を設置し、1000人の社員削減を含むコスト削減に取り組んだ。翌年6月、通産省の私的懇談会は原発のコストを1割程度削減できる方法について報告書をまとめた。1984年9月頃、東電は柏崎刈羽原発の取水口施設を合理化し、工費を15%削減。1985年9月のプラザ合意による円高で、円高差益還元圧力が強まり、電気料金を値下げ。この頃、関西電力が原発比率を向上させて収益力を高めた。1987年9月、東電はコスト削減策を中心に25件の改善事例を社長表彰。1992年、バブル経済崩壊後の電力需要低迷に対処するため社内の合理化を推進。

原発の稼働率向上に関しては、平成の初め頃に90日間かけていた定期点検の日数を1999年頃には40日前後に短縮した。

1993年に荒木浩氏が社長に就任すると「兜町のほうを見て仕事をする」「東京電力を普通の民間企業にする」とコスト削減の大号令を発し、3・11事故当時の社長だった清水正孝氏は、1990年代の電力一部自由化の時代に前任社長の勝俣恒久氏の命を受け、資材調達改革を断行した。

上記のように、コスト削減・原発稼働率向上一色の社風に加え、15.7mの試算が出た当時は、新潟県中越沖地震で損傷を受けた柏崎刈羽原発の修繕費用に約4000億円、福島の2つの原発の耐震工事に約1000億円がかかって、経営陣がコストに過敏になっていた。これが結果的に、「蓋然性(確率)と費用の比較衡量」という誤った思考に導き、津波対策を怠った。自然災害は待ったなしなのにである。

次ページより罪が重い旧原子力安全・保安院の「怠慢」
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