あわや事故も、大正・昭和天皇の鉄道「ご受難」史 勾配で電車逆走し衝突寸前に、脱線にも遭遇

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小田原から熱海までの駕籠や人力車での行程は、多くの旅人にとって楽なものではなかった。後に「軽便鉄道王」と呼ばれた雨敬こと雨宮敬次郎も、苦しい思いをした一人だった。雨敬が結核を患い熱海へ療養に出かけた際、人力車に揺られたせいで吐血。このとき、少しでも移動が楽になるよう、小田原から熱海まで鉄道を敷くことを考えたという逸話がある。

雨敬翁終焉地
熱海梅園内に立つ「雨敬翁終焉地」の碑(筆者撮影)

この雨敬と、東海道線のルートから外れることで陸の孤島化することを危惧した熱海の有志の人々が結びつき、小田原―熱海間の鉄道敷設計画が浮上する。ところが、実際にできあがったのは、経費を抑えるため、レール上のトロッコのような客車を人が押す「人車鉄道」という代物だった。

大正天皇は「人車」に乗車したか?

この豆相人車鉄道(早川口―熱海間 約25km)の路線は、そのほとんどが海沿いの崖上の道(当時の県道)を行く、険しいコースだった(江の浦付近は山の中を行く)。当時はトンネル掘削技術も発達していなかったし、そもそも建設費を安く抑えるために、このような経路が選定されたのである。

豆相人車鉄道
車夫に押され連なって進む豆相人車鉄道の車両(写真:今井写真館所蔵)

アップダウンも厳しく、江の浦を頂点に、根府川―江の浦―真鶴間はかなり長い急坂を上り下りする。上り坂を押し上げるのが大変なのはもちろん、下り坂でも、貧弱なレール上で、車幅の割に背が高く、バランスの悪いこの乗り物をスピードが出た状態で操車するのは難しく、大事故が起きたこともあった。下記は、1906年8月29日付の横浜貿易新報(神奈川新聞の前身)記事である。

熱海鉄道会社(注:豆相人車鉄道から社名変更)の人車二台までが転覆して重軽傷者七名を出したる椿事につき(中略)、変事の場所即ち江の浦新畠北に差掛かりたりしが自分(筆者注:事故車を操車していた車夫)の二等車七号は歯止めが極めて緩るければ同所の如き急勾配は速力早まるは当然の事なれば強よく締めたるに突然後部が浮き立ちガクリ海辺に面して転覆したる次第なり(後略)
1906年8月29日付 横浜貿易新報
人車の転覆事故を伝える1906年8月29日付の横浜貿易新報記事(当時の紙面から引用)

このような大事故には至らないまでも、人車の脱線・転覆は、しばしば起きたという。地元の人から聞いた話では、かつて根府川の海岸線に植えられていた松林は、「下り坂で脱線した人車が海まで転げ落ちないよう、落下防止のために植えられた」という。

このように現代の基準で考えれば(当時の基準でも)、危険といわざるを得ない人車鉄道であったが、『静岡県 鉄道物語』(静岡新聞社編)という本に、早川に住む古老の思い出話(1897年頃)として大正天皇が人車に乗られたというエピソードが掲載されている。

わしが10歳ぐらいのころ、大正天皇が皇太子のころだろう、熱海に出かけられ人車に乗られた。早川の駐在や多くの巡査が出て大さわぎだった。先頭の客車に警察官が乗り、三台目の客車に皇太子が乗られた
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