大学の教養教育を「資本の論理」からどう守るか 加速する資本主義社会における「知識人の使命」

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本来、教養や学問(特に人文知)というものは非常にスローであり、資本主義的な効率とは相容れないものです。昨今の教養ブームが行き過ぎたビジネスへの反省という意味でも興味深いのですが、行き過ぎた資本主義そのものを見直さずに教養教育だけを掲げても、結局コスパよく教養を身に付けようというファスト教養的なものに矮小化され、マニュアル化していくだけでしょう。

大学は「最後の知の拠点」であるべき

行き過ぎた資本の論理については、教員だけではなく学生にも言えることです。私は、経営共創基盤グループ会長の冨山和彦さんが提唱している、大学をグローバル型とローカル型に分け国際競争力のある大学以外は地域特化型の職業訓練校にすべきという話には批判的です。ローカル型大学の学生たちは資格を取ればいいのだから教養は要らないということになっていけば、昨今の文学部不要論のようなものに拍車をかけることになる。学生の側も資格を取れればいいという気持ちで大学に来るようになってしまえば、最後の知の拠点としての教養教育も骨抜きになってしまいます。その先にあるのは、超格差社会です。

社会に出ると、マニュアルや小手先の知識・暗記では対応できないような問題が山積しています。気候変動や人口減少の問題をマニュアルだけで対応していくのは当然無理ですし、行き過ぎた資本主義社会の問題を資本主義の中だけで解決していくことも難しいとすれば、古典を通じて全体を俯瞰したり、メタな視点をとったりできる知を、クリティカル・シンキング、ロジカル・シンキングとして身に付けていく教養教育をどのように守ってくかということは、今後、ますます重要になっていくと思います。

堀内:私は、「生きる力」というのがとても大事だと思うのですが、いわゆるサラリーマンは、肩書を取ったら何が残るのだろうという人がほとんどです。学者もまったく同じで、斎藤さんのように東大の教授という肩書を取っても、発信力があって社会に影響を与えられる人が大学で自由に活動していることは、教養という意味でもすばらしいことだと思います。

一方で、大学の中にも肩書に頼らなければ生きられないような先生もいて、そのような人が「教育の自由」を盾に大学改革を批判していることには疑問を感じています。斎藤さんとそのような人たちは一体何が違うのでしょうか。なぜ斎藤さんは特別なのでしょうか。

斎藤:私にとっての大きな転機は10代でアメリカに留学したことだと思います。英語も全然できず、何もわからない。東京出身で私立の男子校に通っていたところから、急にマイナーアジア人になるという経験、つまりは無意識のうちに履いていた下駄が一気になくなるような経験をしたのです。そうすることで自分がそれまでいかに恵まれていたかを少しは自覚できたと思います。

そのうえで、英語しか通じない世界で、本場のリベラルアーツ教育に触れ、英語で古典の知識を摂取し、それを大きな文脈で議論するというようなトレーニング機会を早い段階で受けられたことは、今の自分につながっているとは思います。

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