中国からベトナムへ、絶景の「昆河線」数奇な過去 フランスが建設、21世紀初頭まで国際列車も

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清国領内(現在の雲南省内)での線路敷設は1904年に始まった。ベトナム寄りの区間から着工し、まず1909年に国境駅の河口から碧色寨までの区間が完成。その後、1910年4月に昆明まで全線のレールがつながった。

建設に動員された作業員は計6万人に達し、うち5分の1に当たる1万2000人がさまざまな事故により殉職した。同線の難工事の象徴として、橋桁が「人」の字形をしていることから「人字橋」とも呼ばれる五家寨橋が取り上げられるが、この橋の工事だけで実に800人が転落などで亡くなっている。

山間部を走る昆河線の車窓から
険しい山間部を通る昆河線。建設工事では1万人以上が殉職した(筆者撮影)

作業員の5人に1人が亡くなるという狂気的な建設作業だったにもかかわらず、フランスが同線をなんとしても完成させようとしたのには理由がある。雲南省は天然資源や鉱物資源の宝庫であり、さらにイギリスも獲得を狙っていたアヘンをも手にできるという「旨味」があった。さらに、インドシナの各地で作られている米や干し魚などの中国市場への売り込みも図れるとの狙いがあった。

21世紀まで走っていた「中越国際列車」

1911年に辛亥革命が起こり清国が倒れ、中華民国が建国されたのちには、雲南省内にメーターゲージよりさらに線路幅が狭い610mm軌間の支線も敷設された。一方、第二次世界大戦中には、ハイフォンに上陸した日本軍が雲南省に侵攻するのを防ぐため、中国国民党が中越国境の橋や河口―碧色寨間の線路を自ら破壊したこともあった。

1949年に中華人民共和国が成立すると、昆明と国境の河口までの区間は「昆河線」と呼ばれるようになった。その後も、昆明―ハノイ間を結ぶ国際列車は1979年に勃発した中越紛争の影響で運休した時期こそあったものの、週に数便、細々ながら運行が続いていた。

しかし、高速道路の開通などで自動車交通の利便性が鉄道を上回るようになり、さらに鉄道自体も、渓谷沿いの岩場に敷かれた線路や、ほぼ全てのトンネルが岩を穿っただけの「素掘り」であるといった点で安全性に問題があるとの判断がなされた。その結果、建設開始からおよそ100年経った2003年には全線を走破する旅客列車が廃止。わずかに残った区間運転の旅客列車も、2005年をもって一旦停止されてしまった。

昆河線 素掘りのトンネル
トンネルはほぼすべてが「素掘り」だった(筆者撮影)
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