30歳「日本語で歌うアメリカ人」の彼が掴んだ天職 17歳で来日し、歌番組で注目されメジャー歌手に

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当時聞いていたJ-POPは、Mr.Childrenさん、アンジェラ・アキさん、YUIさん、宇多田ヒカルさん、などさまざまな日本の歌だ。

いつしか日本に対する思いはふくらみ、

「歌詞が理解できるようになりたい」

「日本語でしゃべれるようになりたい」

「日本語で歌詞を書きたい」

と成長していった。

「そして、『高校を卒業したら、日本に引っ越して歌手として活動しよう』という具体的な夢を見るようになりました」

日本語習得はめざましく、ポートランド市の日本語弁論大会で1位を獲得した。

アメリカの高校は基本4年間だったが、早く単位を取り、飛び級して卒業した。

17歳で歌手になるため、日本に来日することに決めた。

若い身空で日本に移り住むことに親御さんは反対なさらなかったのだろうか?

KUMONでアルバイト

「恵まれたことに、両親ともアバウトな人だったんですよね。日本語が割とちゃんとしゃべれるようになっていたので、

『困ったらなんか普通に仕事あるだろう。失敗しても帰ってくるだけだし』

と思ってくれたみたいです。

あと自分でバイトしてお金貯めていたんです」

バイト先はKUMON(くもん)だった。あの公文式である。学習塾をフランチャイズ展開する公文教育研究会といえば日本人ならだいたい知っている、日本の会社だが実は現在60を超える国で展開しているグローバル企業でもある。

「公文が日本の企業だというのは、アルバイトするまで知りませんでした。日本の国語にあたる英語と、スペイン語、数学、の授業がありました。

僕はアシスタントで、テストの採点をしていました。そこで貯めたお金で日本に来ました。だからお金のことでとやかく言われることもありませんでした」

(筆者撮影)

当時のニコラスさんは、待ち切れないほど日本に来たかったという。

「高校の卒業式翌日に飛行機に乗って来日しました。もう行きたくて、行きたくて。

今思えば、夏休みの期間くらいは、大学に進学する友達と遊んだりしてもよかったんじゃないか?とも思いますけど。そのときは本当に1日でも早く日本に来たかったんですよね」

来日してからは、高校時代の先輩の日本人の友人宅に住まわせてもらうことになった。

「その練馬の家は、僕にとって日本の実家です。お母さん、お姉ちゃんと呼んでいて、今でも年末年始などには帰ります」

練馬のお母さんは東京育ちで発音に厳しい人だったという。

当時のニコラスさんは、青木先生の関西弁をはじめ、さまざまな地域の言葉が混ざっていた。

「お母さんの許容範囲を超えたしゃべり方をすると、会話の途中でも止められて、注意されるんですね。当時は

『何も会話を遮らなくても……』

ってちょっと不満だったんですけど、そのおかげで日本語力はすごく上がりました。コミュニケーションも捗るようになって、感謝してもしきれないですね」

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