「家族ノマド」での試練、中学に入って感じた「違和感」

――ゆじーさんは小学生の頃から、国内外を問わずさまざまな場所に数週間から数カ月滞在し、現地の学校に通う「家族ノマド」をされていました。当時の生活をどう感じていましたか。

両親は環境を変えながらそれぞれの仕事をしていて、僕にも各地でミッションが与えられていました。9歳ぐらいで初めて行ったハワイでは、英語もできないのに「友達をつくる」という目標を立てました。それは初日で達成できたし、父はいろんなことを経験させたかったのだと思いますが……。言うのは簡単だけど、父はその苦労を経験したことがないわけですよ(笑)。

とくにつらかったのは、中学1年生でニュージーランドの現地校に2週間通ったときですね。当時もまだあまり英語ができなかったので、毎日ストレスを抱えていました。僕はもともと、とてもシャイなんです。家族ノマドのたびに自分の殻を破って限界突破する必要があり、「なんで僕だけいつもこんな思いを」と感じたこともありました。でもこうしたことで「やれば何でもできるんだな」と自信がつき、コミュニケーションも好きになりました。いろんな場所に行くのもシンプルに楽しかったですね。

ゆじー
2003年生まれ。日本の教育に疑問を持ち、私立中高一貫校を辞めて英国の高校に留学。国際バカロレア(IB)バイリンガルディプロマ取得後、米ミネルバ大学に進学。著書に『世界最難関のミネルバ大学に合格!実力以上の結果を出す!「ゆじー式」学習法』(KADOKAWA)がある

――小学校卒業後、東京都内でも人気の中高一貫校に入学されましたが……。

受験して入った進学校でしたが、すぐに自分には合わないと感じるようになりました。幸い友達には恵まれて、彼らに引っ張られる形で頑張ったら成績は上がりました。そのあたりの勉強のテクニックはブログなどにもまとめていますが、結局は定期テストの前に、いかに短期記憶を詰め込めるかでしかない。どれだけ暗記したかで競争して、その競争で大学が決まって、その大学の名前で将来の仕事が決まる。正直、僕は日本の教育制度は終わってると思います。いい友達ができたことも含め、当時のことを無駄だとは思わないし、個人の生き方を否定はしません。でも僕はその制度から抜け出したかったし、高校で中学校の反復をするのも絶対に嫌だった。だから内部進学を辞退し、ほかの選択肢を探すことにしたのです。

――「ほかの選択肢」として、英国の高校への留学を決意されました。決め手は何だったのでしょうか。

進学するにしても何のために勉強するのだろうと考えたとき、自分の将来につながることなら頑張れるのではないかと思いました。大好きなゲーム業界で働いている人たちに、中高時代の勉強が今の仕事に生きているかを聞いてみよう。そう思い立ち、いくつかの企業訪問を経て、フィンランドのsupercellというゲーム制作会社を訪ねました。ここで自分の英語力の低さを痛感したし、こういうところで働くためには英語が必要なんだとも思いました。また、当時の僕は『ハリー・ポッター』シリーズにものすごくハマッていて、映画も累計で100回以上見ていました。英語のシャドーイングをしていたこともあって、セリフもほとんど言えるぐらい。選択肢を広げるためにも英語を勉強したいし、それなら大好きなハリー・ポッターの国である英国に行きたいなと。

ハワイでのミッション「友達をつくる」はすぐに達成した(左)。憧れていたフィンランドのゲーム会社で(右)

甘えん坊が強くなり、今では「トラブルもウェルカム」に

――英国留学について話したときのご家族の反応は?

父には「英語を勉強するだけならもっと安い国がある。なぜ英国なのか」と聞かれました。確かに英国留学は費用がかかる。もともとうちはお小遣いやお年玉がなくて、欲しいものはその理由を親にプレゼンテーションして買ってもらうという家庭でした。父は超ケチなんです(笑)。お小遣いが欲しいなと思ったこともあったけど、自分が理論とパッションを持ってプレゼンすれば買ってもらえたし、そこまでいかないときは、自分でもさほど欲しくないんだなと納得できました。そういう意味で、英国留学は「絶対に欲しいもの」だった。

何よりも、両親と離れて海外に飛び出すなんてことは、実は僕自身がいちばんしたくないことでした。海外経験が増えるほど日本が好きになっていたし、とにかく僕はシャイだし。そんな僕が、今までとまったく違うことをしたいと思えるモチベーションが、ハリー・ポッターの国である「英国」だったんです。父には、そのモチベーションがなくて頑張れるほど僕は強くないし、そういう自分を強くしたいとも伝えました。甘えん坊の僕がそこまで言うという本気度を、最終的には両親ともわかってくれた。ただし、ネイティブでも難しい制度であるIB(国際バカロレア)を取ること、通常は3年間の留学を2年間で修めることという厳しい条件付きでした。

――ご苦労もあったと思いますが、留学先での生活はいかがでしたか。

僕は日本にいたときから、興味のない教科を学ぶことにとても苦痛を感じていました。留学した高校では、例えば6教科のうち4教科が選択制で、30教科ぐらいの中から興味のあるものを選ぶことができました。「こんな世界もあるんだ」と新鮮でした。

苦労したのは食事が「ジャガイモ地獄」だったことぐらい(笑)。カルチャーショックは時々あったと思いますが、振り返ってそんなに大変だったと思うことはありません。

寮生活で初めて外国人相手に文句を言いに行ったときは、ドキドキしたし怖かったし、そのときのことをまとめた動画はバズりもしたけど、問題が起きても解決するたびに動じなくなっていくんですよね。大抵のことは何とかなるので、そこにストレスを抱えるだけ無駄じゃないですか。強くなったなと思うし、YouTubeのネタになるので、むしろ今はトラブルもウェルカムです(笑)。

「自分がどういう人間かは、行動して初めてわかること」

――大学進学や志望校を決めたときのことを教えてください。

受験時にも興味のあることが見つかっていなかったので、大学には行かなくてもいいと思っていました。でも米国のミネルバ大学を受けた理由の1つは、面白い人に出会えそうだと思ったこと。もう1つは、その時点で「合格率1.9%」と、同大学が超難関だったことです。ミネルバ大学は過去問も出回らないし、入るのはほぼ不可能に思えた。だからこそ挑戦してみたいと思ったんです。補欠のような形でしたが運よく合格でき、入学してみたらやっぱりものすごく優秀な人ばかりでした。友達と話している時間はとても楽しいです。

大学は米国を皮切りに、ドイツやアルゼンチンなど、7カ国を回りながらオンラインで受講するというスタイル。2年目の今はインドのハイデラバードで、ビジネスを専攻して学んでいます。ディスカッションで求められることのレベルが高く、予習にも1授業につき2~3時間かかるのでかなり大変です。

写真はすべて大学の友達と撮ったもので、年齢も国籍もさまざま。また、中学や高校時代の友達とも親交は続いている

――晴れてミネルバ大学生になられて、興味のあることは見つかったのでしょうか。

今もまだ、自分の興味のあることはわかりません。考え方は日々変化していて、やりたいこともつねに変わっていきます。僕はルーチンが嫌いで、1週間先のことも考えていないぐらい、将来のことも決めていません。例えば今はインドに来てから2週間ぐらいなのですが、最初に比べて街や食事に慣れて、楽になってきたなと感じています。でもこれって、ここでの滞在がルーチン化してしまったということ。だから新たな刺激を求めてジムに通い出したり、中国語の勉強を再開したり、ポーカーを始めたりしています。ポーカーは毎日1時間勉強していて、もう友達には負けなくなりました。そのうちラスベガスでプロポーカープレーヤーになる予定です(笑)。

「今」を毎秒楽しんでいたいし、そのためにやらなければいけないことも毎秒変わっていく。今のところは大学が第一優先ですが、もしやりたいことや興味のあることが決まったら、大学もすぐに辞めると思います。

これは僕のSNSを見てくれている若い人たちにも伝えたいのですが、とにかく恐れずに挑戦して、自分を試してほしいと思います。自分がどういう人間かは、行動してみて初めてわかること。僕は興味のあることをずっと探し続けていますが、やりたいことが見つからなくても生活はできるし、探し続ける過程こそが大事なんだと思っています。

――探し続けるための原動力はどこからくるのでしょう。自分が人より優れている点があるとしたら、どんなところだと思いますか。

根拠のない、変な自信があるところ(笑)。これは子ども時代からずっとそうで、両親にも「どうしてそんなに自信があるの?」と言われていました。

僕は自分の考えていることに対して、正しいかどうかではなく誇りを持っているし、理由がなくても自分の出した結論を自分で肯定できる。迷ったらいつもつらいほうを選ぶようにしています。

僕の生き方は少し特殊かもしれませんが、人それぞれにいろんな形があっていいと思います。周りの大人には子どもの興味を突き詰めさせてあげてほしいし、個性を潰さないでほしい。親世代の常識はもはや今の常識ではないし、いくら親がリサーチしても、子ども自身が現場に行かないと本当のことはわかりません。シャイだった僕も、僕自身が変わりたいと思ったからこそ今があるのです。

(文:鈴木絢子、写真:ゆじーさん提供)