真の仲間を持たない人々の決して相容れない論争 小田嶋隆「それは仲間にしかわかってもらえない」

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ずっと見ていると、イライラする。で、B氏は、

「かわいそうに真の仲間がいないんだな」

という揶揄を投げかけずにおれなかった。

ここまでのところはわかりやすい。

少なくとも私は、双方の気持ちがわかる気がした。A氏がくり返している集団主義に対する嫌悪の気持ちにも共感する部分があるし、B氏がそのA氏の独善をたしなめたくなった気持ちも理解できる。

私が、一瞬、仲裁に入ろうかと思ったのも、両者の言い分に、それぞれ、大切な真実が含まれていると感じたからだ。

思うに、「世界」は、われわれにとって、実質的には「仲間」の定義として認識されているところのものだ。

「真の仲間」という決め台詞

わかりにくいいい方だったかもしれない。

以下、説明し直してみる。

われわれが「外界」と言い「世界」と言う時、それは、「自分の外に広がる全世界」ではない。どちらかといえば、「自分の目に見え、自分の手で触れることのできる範囲の世界」が、実質的な「世界」になる。ということはつまり、われわれにとって、「世界」とは、実質的には、「仲間という言葉で定義されるところの外界」とそんなに変わらない。

だから、A氏のプライドが、「安易にツルまない」「孤立を恐れない」「仲間のために仕事をするのではなくて、仕事のために仲間を募る」みたいなところに集約されるのは、それはそれでたいへんによくわかる。

彼は、自分の「世界」を、厳密に限定しようと考えている。「義理」にからまれたり、「空気」に流されたりして、自分の「世界」の定義を曖昧にされることに対して強い警戒の気持ちを持っている。

一方、B氏から見れば、A氏の孤高気取りは、片腹痛い。で、「本当の一匹狼は、自分の境涯をいちいち説明しないぞ」「孤高を気取るなら他人に同意を求めるなよ」

と言いたくなる。

で、そういう時に出てきた言葉が

「真の仲間」

という決め台詞(ぜりふ)だったわけだ。

痛い言葉だ。この言葉に対してA氏は

《「真の仲間」という言葉の気持ちわるさ》

と題したブログエントリーをアップして反論している。で、B氏の言う「真の仲間」を

《ブレークダウンして形容するのなら、「自分のことを理解してくれて、決して裏切らない存在」とでも言えるでしょう》

と、再定義した上で、

《「真の仲間」という言葉から、「相手を所有したいという願望」「相手は自分を決して裏切らないという根拠なき期待」の匂いを、ぼくはどうしても嗅(か)ぎ取ってしまいます》

と論難している。

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