社会人の知人「親友」として腹を割るのが難しい訳 小田嶋隆「敬語の関係は友だちに着地しにくい」

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友だちは、私にとって、自分が若く、愚かだった時代を保存する密閉容器のようなものだ。その意味で、大人になってから、すっかり疎遠(そえん)になってしまっている人間でも、共通の愚行に関連付けられている名前は、私の脳内では、友だちというタグとともに呼び出されることになる。彼らは、いってみれば史料であり、私自身の過去そのものでもある。だからこそ、その懐かしさには、大量のエゴが含まれている。

対照的に、社会人になってから出会った人間は、どんなに親しく付き合っていても、最終的な部分で、やはり友だちにはなれない。

理由は、いくつかある。

なにより、社会人の交際には、利害が絡んでいる。相手が得意先の人間だったり、取引先の社員だったりする限りにおいて、彼我(ひが)の関係には、仕事がらみの匂いがつきまとう。これは、意外なほど大きな障壁になる。そういう意味で、仕事抜きで知り合うことができたら、もっと親密になれたかもしれないと思える相手を、誰もが、一人や二人、持っているのかもしれない。が、仕事を通じて知り合った人間同士が、仕事抜きの関係に戻ることは、おそらく、恋人が友だちに戻ること以上に困難なはずだ。

同僚とも無邪気には付き合えない

同じ会社の同僚の間には、得意先とは別の、微妙な力関係が介在している。同僚は、クラスメイトみたいに無邪気には付き合えない。そんなふりができるというだけだ。

とはいえ、業界は、話の合う仲間の宝庫ではある。私自身、酒抜きで思うままに話ができる相手は、編集者やライターといった出版界の人間にほぼ限られる。同じ業界の人間は、興味の対象や経験において共通する部分が大きい。だから、くだくだしい背景説明抜きで直接話題の核心に踏み込むことができる。この簡略さは貴重だ。

別のいい方をするなら、大人になって、仕事漬けの暮らしをするようになった人間は、同じ業界の人間としか話ができにくくなるということだ。この傾向を成熟と呼ぶのか、人間性の歪曲(わいきょく)と呼ぶべきなのか、軽々に断定することはできない。いずれにせよ、われわれは、職業人としての経験を積めば積んだだけ、間口の狭い人間になる。これはどうしようもないことだ。

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