リー・クアンユー氏死去、91年の偉業とは? シンガポール国父はなぜ政治家になったか

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戦後に英国留学を経験したリー氏は、このナショナリズムを強く再確認する。帰国後、弁護士として働いた彼は、独立運動で植民地政府に弾圧された労働組合や学生指導者の弁護を引き受けるようになった。この活動をこなしながら、政治への道を進むことになる。そして1954年、1500人以上の出席者を前に「人民行動党」(People's Action Party, PAP)の結成を宣言、政治家リー・クアンユーが本格的に誕生する。

1955年、大幅な自治権が付与された立法議会選挙が行われ、リー氏はこれに立候補、当選したが、PAPは第一党を逃した。1957年に隣のマレーシアが英国から独立、シンガポールは1958年に英連邦内自治州となり、外交・国防を除いた完全内政自治権が付与される。そして1959年の自治政府選出のための総選挙でPAPは圧勝、35歳の若さでリー氏は首相に就任した。「ストロングマン」としてのリー氏の政治家人生は、ここから本格化する。

シンガポールが独立する1965年まで、リー氏は二つの大きな試練を迎える。一つは、PAP内外の共産主義勢力との対決、そしてマレーシア連邦への加盟問題だった。結果は1勝1敗。共産主義勢力との対決をかろうじて勝利に導き、PAPの勢力を固めることができた。その勢いで、1963年にマレーシア連邦に加盟してシンガポール州となり、住民の生活の安定を図ろうとした。だが、マレーシア側が「華人勢力が強まり、連邦の結成を乱す」とし、シンガポールのみでの独立を強いた。独立とは言え、いわばマレーシア側による追放である。

押しつけられた“独立”に直面

若き日のリー・クアンユー氏(写真:AP/アフロ)

「私には苦悶の瞬間だ」。1965年8月、シンガポール独立を宣言する記者会見で、リー氏は人目をはばからず涙を流した。「シンガポールのため」と邁進してきたマレーシア連邦編入が、そのマレーシア側から追放される。前途を閉ざされたと感じたリー氏にとっては相当な衝撃だったのだろう。リー氏が人前で涙を流したのはこの時と、1980年に母親が亡くなった時のみと言う。だが、この涙は「シンガポール存亡の危機」と言われた状態への決別を意味する涙だったのかもしれない。

リー氏がその後、シンガポールを現在のような先進国レベルにまで成長させたことに、詳しい説明は不要だろう。手厚いインフラ設備で外資を誘致し産業を興し、住民には雇用を増やして生活を安定させた。東南アジアで最も清潔で整備された街並みを見ても、豊かな国であることがわかる。「シンガポールを東南アジアのオアシスにすること」がリー氏の戦略の一端だったと述べたことがあるが、まさにそれを実現させたのである。

その一方で、徹底して政敵を排除しPAPの独裁体制は現在も続く。野党には選挙制度や選挙区の改編で攻撃し、野党候補を当選させた地区には政府支援などで不利益を被るようにしたこともある。徹底した能力主義で国を発展させたことは間違いないが、住民に失敗・敗者復活を許さない教育制度などのエリート至上主義の政策には、人権上からの批判が相次いだ。それでも「現実的に自分は正しい」というリー氏は信念を持って反論、内外からの批判を許さなかった。そして、シンガポールもそれを受け入れてきたのは確かだ。

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