運動に親しむことこそが「体育科」の目標

秋の大きな学校行事の1つである運動会が終わり、12月に入って持久走が始まっている学校も多いことだろう。そうした体育的行事があることから、この秋から冬にかけては、運動が苦手な子にとってはとくにつらい季節かもしれない。

運動会では、「組体操」の危険性が一時期大きな問題となったことを覚えている人は多いのではないだろうか。運動会の種目は、大きく「表現種目」と「競技種目」に分かれるが、旧来の表現種目の代表格が組体操である。だが、この危険性は「組体操」自体に問題があるわけでは決してない。

学校の体育の授業の一環にもかかわらず、人間ピラミッドやタワーを高くしたり、崩したりといった負荷の強すぎる過剰なパフォーマンスを求めることが問題だった。なぜ過剰なパフォーマンスを求めるかというと「観衆が喜ぶから」という理由と「指導者としてのプライド」が挙げられる。これらの考えは子ども不在であり、まったく要らない。

小学校を例に取ると、現在の学習指導要領における体育科の「1教科の目標」は以下のとおりである。

体育や保健の見方・考え方を働かせ,課題を見付け,その解決に向けた学習過程を通して,心と体を一体として捉え,生涯にわたって心身の健康を保持増進し豊かなスポーツライフを実現するための資質・能力を次のとおり育成することを目指す。
(以下略)

生涯にわたって心身の健康を保持増進することが目標なのだ。無理な負荷をかけたり恐怖心を植え付けたりして体育嫌いを生んでしまっては、本末転倒である。

一方で、その運動に親しむ機会を設けなければ、好きになりようもない。そういう点から、小学校の体育科は、生涯スポーツへの出合いの入り口といえる。だから、わざわざ無理な鍛練をさせようとせずに、学習指導要領にのっとって、課題を見いだしてそれぞれに合ったペースで運動をやればいい。

持久走嫌いは、なぜ生まれるか

ところで運動会の競技種目では、昭和の時代と変わらず今でも徒競走が行われることが多い。文字どおりの競争であるが、多くの子どもたちには、それほど嫌がられてはいないようである。もちろん、心底嫌だという子どもも一定数いるが、どちらかというと、レースを頑張ろう、楽しもうという気持ちが見られる。

組分けも「くじ引き」が主流であり、ある意味「くじ運次第」というところもある。ルールがシンプルで誰にでもわかり、短時間なので競技自体もさくさく進む。要は「一瞬のはかない勝負」という位置づけなのである。

同じく走力を競う持久走だが、こちらは本当に嫌という子どもがかなり多い。「校内マラソン大会」はとくに嫌がられる。「記録会」と名前を変えている学校もあるが、競技会であることに変わりはないところがほとんどだ。「昨年よりも順位を上げるぞ」とポジティブな子どもが一定数いる一方で、「できればやりたくない」という消極的な本音を持つ子どもが多数を占める。この傾向は、高学年になるほど顕著だ。

体育科では本来「マラソン」のような過酷な運動は、いっさい求めていない。あくまで「持久走」であり、その位置づけも「C 陸上運動」内にはない。高学年だと「A 体つくり運動」の中の「イ 体の動きを高める運動」の中の「(エ) 動きを持続する能力を高めるための運動」という、ごく小さいカテゴリー内での例示である。それも「無理のない速さで5~6分程度の持久走をすること」という一文だけである(低学年と中学年もほぼ同様の位置づけで、それぞれ「2~3分」「3~4分」だ)。

要は、気持ちよく数分間走り続けられれば目標達成ということである。無理のない速さとは、走りながら風景を眺めたり体で風を感じたりできる程度の速さであり、本来楽しい運動である。生涯体育の視点からすると、健康のために行っている趣味のジョギングやウォーキングがこれに当たる。

しかし、実態はまったく違う。「校内マラソン大会」で見られる走りは、「無理のない速さ」とは程遠い、息を切らして倒れんばかりの必死の形相のレースである。

保護者や全校児童といった、多くの観衆の中で競争をさせているのだから、当然である。また徒競走と違い、苦しみが数分間にわたるため、精神的にも肉体的にも苦行だ。なぜ、それでもやるのかというと、「子どもの肉体と精神の鍛練の場だから」だという。そういう高尚なことは、別にここで多くの人目にさらしながらやらずともよい。

一方で、実際は「保護者が要求するから行事として切れない」という学校側の悲痛な本音もある。持久走の得意な子どもの親からすれば、わが子の大活躍の場であるから、自然な要求である。さらに「私たちの子どもの頃にもあったから」という主張もあるが、時代は変わって学習指導要領も変わったのである。

どれも、多くの子どもからしたら、小さな親切、大きなお世話である。そもそも、学校側がいちばんの指標である学習指導要領を完全に無視しているからこうなるのである。

生涯体育の視点からすれば、先に示したように、将来的にジョギングやウォーキングに親しむような人になってほしいわけだ。それは多くの場合「校内マラソン大会」のような競争的行事から生まれる姿ではない。本来の目的に立ち返ることが肝要ではないだろうか。

これからの体育は「選択」がキーワード

持久走の指導で大切なのは「走ることって気持ちいい」という感覚を育てることである。「自分には、実はこんなに長い時間走れる力があるんだ」と実感させることである。

例えば、私が持久走の指導をするときは、時間を指定する。「3分間」に始まり、「5分間」「7分間」「10分間」と延ばしていく。本来5~6分間走れればそれでいいのだが、10分間も余裕で走れることを実感すれば、走ることへの抵抗感がなくなるためである。

これをやっていると「長く走るにはゆっくり走る必要がある」と自然に学ぶ。自分でペースの選択ができるようになるのだ。「逆に短い時間のほうが、自然とペースが上がるからきつい」という意見も出てくる。この「運動への気づき」こそが、本来体育科の学習指導要領の狙うところである。

これからの体育には「選択」という考え方を持ち込むとうまくいく。いくつかの例示を中心に、ほかも選べるというものだ。

その際、「何を選択肢として示すか」と「何を評価するか」が指導のポイントとなる。この場合、ペースは自分で選べる。どんなに速く走ろうとも決まった時間を走るとなれば、それはレースにはならない。しかし、そこで「周数」を競わせたり、多く走った子どもを称賛したりすれば、それはレース化する。一方で「5分間歩かずに走り続けられた」という点のみを評価すれば、それは子ども自身の選択次第で成功できる。

評価が子どもの動きを引き出すというのは、とくに体育科においては大切なポイントなのだ。

体育科では「できる」以外の目標を

私は、千葉大学教育学部附属小学校で体育科を専門に研究していた時期がある。当時から「自ら運動の楽しさを追求する」が基本テーマで、今でもその流れは続いている。体育科において「できる・できない」に着目すると、どうしても無理や行き詰まりが出るからだ。

しかしながら、昔から学校の体育科研究は、「できる・できない」に特化したものが多かった。この理由は明確で、学校において「できるようにさせる教師が有能」と見なされている時期が長く続いたためである。また、中学以降でも、部活動で優秀な成績を出せる指導者がもてはやされてきたからだ。どんなに子どもが嫌がる理不尽な指導をしても、結果を出せば認められるという暗黒時代が長く続いてきたのである。

そもそも体育が嫌いになってしまう理由は「痛い(または苦しい)」「怖い」「できない」に集約される。これら3つは、「できる」を強硬に目指すと、どうしてもぶち当たる壁だ。「痛い」「怖い」「できない」を代表する体育の授業代表といえば、器械運動である。とくに跳び箱には恐怖心を持つ子どもが少なくない。実際、跳び箱が跳べなくても人生においてまったく問題はない。

「痛い」「怖い」「できない」を代表する体育の授業代表といえば器械運動。とくに跳び箱には恐怖心を持つ子どもが少なくないが、とにかく跳び箱自体を嫌いになることだけは避けたい(写真:松尾氏提供)

跳び箱運動における切り返し系の運動では、踏み切り板による第1跳躍と、跳び箱上の着手による第2跳躍の2段階のジャンプがある。あのような運動は日常生活においてほとんどない(高い塀に向かってジャンプして腕で飛び乗るときぐらいである。アクションスターか、追われる身にならないとなかなか使わない)。

ただ、自分の体への気づきがあるという点において、跳び箱という教材は有用なのである。跳び箱運動であれば、「跳び箱という壁を乗り越える」から始めればよい。よじ登って、乗って、降りれば合格だ。高さも向きもいろいろと変えて、楽しめばいい。

例えば「体育館のステージ上によじ登る、跳び上がる」というような運動も楽しい。こういう運動を、低学年からたくさんしておく。やがてその中で、跳び箱上に着手して跳び越す動きを入れることがあってもよい。そういう下地をじっくりつくっておけば、中学年以降で開脚跳びのような運動も抵抗なく行えるようになる。

一方で、跳び越えることができなければそれでもいい。「できる」を目指すかどうかは、本人ができるようになりたいと心底願っているかどうかである。開脚飛び程度であれば「できる」ための手法はいくらでもあるから、本人が願う場合はそれをすればいい。そうでなければ、先にも述べたように日常生活では使わない動きなのだから、乗り越える運動程度の位置づけで抑えておけばよい。

とにかく、跳び箱自体を嫌いになることだけは避けねばならない。生涯を通じて運動に親しむ資質を育てるという目的からぶれないことが大切である。

なぜ体育の授業は「できる」にこだわりがちになってしまうのか

なぜ、体育科は「できる」に力がいきすぎてしまうのか。自著『不親切教師のススメ』にも書いたが、いまだに体育の考え方が一律の目標達成型だからである。この点は、算数科にも似たことが言えて「全員できる教」のわなに陥りやすい。

松尾英明(まつお・ひであき)
千葉県公立小学校教員 「自治的学級づくり」を中心テーマに千葉大附属小などを経て研究し、現職。単行本や雑誌の執筆のほか、全国で教員や保護者に向けたセミナーや研修会講師、講話などを行っている。学級づくり修養会「HOPE」主宰。ブログ「教師の寺子屋」主催。近著に『不親切教師のススメ』(さくら社)
(写真:松尾氏提供)

学習指導要領には、最低限の到達目標が示されている。例えば5・6年生の「イ 鉄棒運動」から一部抜粋すると「基本的な上がり技や支持回転技,下り技に取り組み,それぞれについて自己の能力に適した技が安定してできるようにするとともに,その発展技をできるようにする」といったものである。見てわかるとおり、特定の技そのものの習得は到達目標には書かれていない。「自己の能力に適した技」というだけだ。

例えば体育で「できる」の代名詞ともいえる「逆上がり」がどう示されているか見てみる。「B 器械運動」という大カテゴリー内に「イ 鉄棒運動」という中カテゴリーがある。その中に[上がり技の例示]という小カテゴリーがあり、その中に4つ示されている技の中の最後の1つ、という程度の位置づけである。つまり、本来逆上がりそのものができるかどうかは、問われないのだ。

そこで、鉄棒運動の指導の際には、学習指導要領に示されている「基本的な上がり技や支持回転技,下り技に取り組み」と「自己の能力に適した技」に注目する。要は、鉄棒に上がって回って下りればいいのである。上がれなければ、まずぶら下がるところから始めればいい。その中で、技はその子どもに合ったものを選択すればいい。繰り返すが、「選択」がこれからの体育のキーワードである。

体育では「できる」以外の目標を持つこと。学習指導要領には、それがきちんと示されている。親切にあれこれできるようにさせるよりも、多少不親切でも子どもの選択への自己決定を尊重する姿勢を持つようにしたい。

(注記のない写真:yanmo / PIXTA)