フィリピンを最も安定させた元大統領の足跡 ラモス氏が死去、軍人から文官、そして政治家へ

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軍のナンバー2だった1986年、繰り上げ大統領選挙で政権継続を狙うマルコス・シニアに対して反乱を起こした軍の若手将校らや当時のエンリレ国防相らとともに、クラーメ基地に立てこもった。政権側が圧倒的な武力で鎮圧に乗り出したとき、カトリック教会の呼びかけに応えた群衆が基地周辺のエドサ通りを埋め尽くし、政権側は身動きが取れなくなった。マルコス一家はアメリカ政府の助けでマラカニアン宮殿から脱出し、ハワイに亡命した。

「革命」後に樹立されたアキノ政権では参謀総長となったが、のちに国防相に指名され軍服を脱いで政府高官となった。1992年の選挙でアキノ大統領に後継指名され、政治家の道に踏み出した。主要政党に属していなかったうえ、カトリックが8割を占めるフィリピンでは少数派プロテスタントという異色候補だったが、アキノ大統領の支持をバックに大接戦のすえ大統領の座についた。

アジアで最も親しみやすい国家元首

軍人上がりの経歴もあり就任時、国内外の視線はけっして温かくはなかった。華がないとも評された。確かに前任者は夫ニノイ・アキノ上院議員を暗殺された悲劇のヒロインで「革命の女神」、後任の大統領となる銀幕のアクションスター、ジョセフ・エストラダ氏はラモス政権の副大統領だった。それに比べ、半世紀以上の公僕生活のほとんどを軍で過ごした経歴はいかにも地味に映った。

そうした世評を意識していたこともあろう、メディアとの接触に気を配った。毎週水曜日に定例の記者会見を開き、時間がある限り自ら質問に答えた。「世界一近づきやすい国家元首」を自称し、各社の単独インタビューの申し出も快く受けていた。

週末は地方行脚をするのが決まりで、その際、地元メディアと外国特派員を1人ずつ連れてゆくのも慣例だった。私も同行する機会があったが、必ず行き帰りの専用機内で、面談の時間を設けてくれた。金曜日の夕方に大統領府の報道担当から電話があり、明日どこどこに行くので同行しないかと誘われる。警備上からだろう、誘いはいつも前日の夕方だった。

最初は大統領との同行に勇んで出かけたが、週1回の会見をはじめアクセスする機会がいくらでもあるので正直、質問もさほどなくなってくる。そのうち週末に予定が入っていると、大統領からの誘いを断ることさえあった。今から思えば、失礼かつ贅沢な話である。

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