日本を圧倒する「韓国コンテンツ」不動の人気の訳 30年前からすでに始まっていたグローバル展開

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ところで、この頃から世界的にグローバルコンテンツへの関心が集まり始めたとはいえ、当時、アジア市場のニーズに応えられる良質なコンテンツは、日本のドラマと香港映画くらいでした。

しかし、日本のドラマは2次利用料が高く、著作権などライセンス関係の扱いが厳しかったため、輸入を試みた事業者は壁に直面しました。また、香港映画も1997年の中国返還をきっかけに、多くの俳優や制作資金が台湾やアメリカなどに流出してしまいました。そうした状況を受けて動き出したのが、韓国なのです。

韓国はなるべく早めにコンテンツをパッケージ化して売りやすいかたちにし、中華圏への輸出を始めました。そして1993年に「ジェラシー」、1997年には「愛が何だって」という韓国ドラマが中国で大ヒットし、アジア市場における日本や香港の穴を埋めたのです。

この時期の収益は今に比べるとそれほど大きいとはいえませんが、これをきっかけに韓国は「コンテンツやカルチャーというものがグローバルビジネスになる」ということに気付き、海外進出に力を入れるようになったのです。つまり、1990年代末頃から韓国は、コンテンツ・ボーダーレスの可能性を実感したといえるのです。

日本市場で成功を収めた2000年代

1990年代に始まった韓国コンテンツのグローバル化は、2000年代に入ってから本格化します。この時期は、韓国コンテンツにとって日本市場がとても重要な意味を持ちます。なぜなら、2001年にBoAが日本デビュー、2003年にはドラマ「冬のソナタ」がNHKで放送され、主演俳優ペ・ヨンジュンの人気も相まって空前の大ヒットとなったからです。いわゆる「韓流ブーム」の到来です。またその後の2005年には東方神起が日本デビュー、2008年に楽曲「Purple Line」でオリコンチャート1位を獲得しました。

このような予想を超えるほどの大きな韓流ブームに韓国も驚きましたが、この時代に大きな特徴として挙げられるのは、徹底的な現地化戦略です。

当時は、BoAや東方神起などが日本で活動をするために、日本に居住しながら日本語を一から学び、日本語で楽曲を歌いました。ときには日本人の好みに合わせた新しい曲も作っていました。つまり、初めから日本を狙い撃ちしてプロデュースされたということです。

ただし、こうした現地化戦略 は韓国の大手芸能事務所であるSMエンターテインメントに所属しているBoAや東方神起だからこそ実現できたことでもあります。なぜなら、ここまで準備を整えるのには巨大な初期費用 がかかっていたからです。

今はK–POPのアーティストがわざわざ現地に住んだり、その国の言葉を話さなくても、受け入れられるようになりました。しかし、K–POPとしてのジャンルが確立されておらず、SNSが発展途上だった2000年代は、現地化することでしか成果を出しづらかったのです。

そして韓国コンテンツがより大きく活躍するようになったのは、2010年前後でした。

日本での成功で自信が付いたこともあり、韓国エンタメ業界はさらに世界全体を視野に入れるようになります。ライセンス関係を整理するなど、海外進出に向け注力する業界に対し、多くの企業が投資をし、政府もコンテンツ関連の公共機関を設立して支援しました。

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