PDCAを回し続けると、火星に行けるのか 『月をマーケティングする』を読む

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セレブリティとなった宇宙飛行士たち

この問題をなんなく解決したのが、プロセスの共有、そして生中継によるイベント感の演出というコンテキストであった。世界中の人が、地球史上最も偉大な出来事を、編集が入らない生の映像で、リアルタイムで見たのである。動画を活用したグローバルで革命的なコミュニケーション。それはまるで、誰もが実際に体験したことのように記憶に残すことを可能にした。

一口にマーケティングと言ってもこれだけ国家規模のプロジェクトとなると、対象となる範囲は非常に広い。だがよく言われる話だが、戦略には階層というものがある。上位の概念から、宇宙観・世界観といった全体ビジョン、米国国家としてのポリシー、NASAとしての全体戦略、アポロ計画としてのキャンペーン戦術、そしてそれらを支える技術。つまりそれぞれの階層におけるPDCAや最適化がうまく機能しただけではなく、縦軸にも階層間がしっかり噛み合うことによって、初期のアポロ計画はうまくいったのである。

新しいフロンティアと、大衆との狭間で

一方で、アポロ11号以降のトーンダウン、この部分も本書では非常に丁寧に描かれる。戦っていた相手は、それまでのソ連の宇宙開発ではなく、大衆の無関心であった。これは直接的にはアポロ12号の生中継失敗という要因が上げられるが、月が未知の領域から既知の領域になったことによる宇宙観の変化が、階層間のピラミッドを崩してしまったことも大きな要因になったのではないだろうか。にもかからず、各々の階層内での最適化のみを進めてしまったことにより、歴史に残る冒険と探索は地質学の議論に取って代わられてしまった。

アポロ11号の乗組員を見るため、シカゴのシビックセンター広場に集まった群衆

たしかにアポロ計画は、次の惑星への到達という成果を生み出すことは出来なかった。しかし米国の宇宙計画が最高潮に達し、それに伴って教育や科学やテクノロジーへの投資が増えた時期に、先見の明があるデジタル世代が成人を迎えたことは注目に値するだろう。宇宙の先には、全く想像もしていなかった新しいフロンティアが開かれたのである。

デジタル世界という新しいフロンティアは、技術的な側面から宇宙科学に大きく貢献しているものと推察する。だがマーケティングとしての側面からはどうだろうか。情報が飛躍的に増大し、フィルターバブルと称される市場環境の分断は、かつてのアポロ計画のような大きな物語を生み出し難くしているのではないかと感じる。アポロ計画を生み出した時代と、デジタル世界を生み出した現在が、まるで「父と子の相克」のような関係にあるとしたら何とも皮肉なものである。

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本書を読めば、分断された階層におけるPDCAの最適化のみならず、統合的な視点で階層間を一気通貫しなければ、大きな事業は成し遂げられないということがよくわかる。マーケティングとは、決してひとつのアプリケーションのような存在であってはいけないのだ。

そして何よりも日々の業務が細分化し、目先の獲得効率に追われる人々にとって、マーケティングの持つスケール感を思い起こさせてくれるということ。それがマーケティングのさらなるイノベーションを生み出し、いつの日かきっと我々を火星に連れて行ってくれることだろう。<画像提供:日経BP社>

内藤 順 HONZ編集長

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ないとう じゅん / Jun Naito

HONZ編集長。1975年2月4日生まれ、茨城県水戸市出身。早稲田大学理工学部数理科学科卒業。広告会社・営業職勤務。好きなジャンルは、サイエンスもの、スポーツもの、変なもの。好きな本屋は、丸善(丸の内)、東京堂書店(神田)。はまるツボは、対立する二つの概念のせめぎ合い、常識の問い直し、描かれる対象と視点に掛け算のあるもの。

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