源頼朝が征夷大将軍に実は大して関心なかった訳 役職が偉いのではなく、偉い人が重役になる出世

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面白いことにこの摂関政治と院政の変遷は、ちょうど家族制度の変化に対応しているのです。平安時代は、『源氏物語』に出てくるように、招婿婚でした。婿を取る。しかしちょうど院政がはじまるあたりで、嫁取婚に変わっていく。そうすると自然に、父方のほうがより権力が強くなる。こうした家族制度の変化とともに、政治の権力も関白から上皇へ、母方から父方へと移行していく。これで大体説明がつきます。

そうした流れの中で異分子が出てくる。源頼朝です。頼朝は征夷大将軍のポストを得た。これまで長く「征夷大将軍というポストに任命されることで、頼朝は軍事のトップに立った」という解釈が行われてきました。征夷とは、蝦夷を征する者。その大将軍に任命されたということは、つまり僻地である関東やさらに僻地の東北の人々を西の統治に服させるために、武力を発揮することを認められた。そのように頼朝は大きな権限を手に入れたのだ。そう解釈する人が大半でした。

だからこそ、彼が征夷大将軍に任命された1192年が「いい国つくろう鎌倉幕府」ということで、鎌倉幕府がはじまった年と解釈されてきたわけです。

しかしそれに対して、私は『武士から王へ』(ちくま新書)という本の中ではじめて「征夷大将軍というポストに意味はなかった。源頼朝という人の実力に見合うものならなんでもよかった」と指摘しました。そう、あれは別に征夷大将軍である必要はなかったのです。中国風に大司馬とか、都督などそうした名前でもよかった。

征夷大将軍に特別な意味はなかった

しかしなんとその後に内大臣を務めた中山忠親(1131─1195)の日記『山槐記(さんかいき)』の、これまで未発見だった部分が見つかった。そこに頼朝任命に関する記述が、ちょうど1192年に、頼朝に征夷大将軍を与えるところの記事が見つかったのです。

その記事によると、まず頼朝は「自分のことを大将軍にしてください」と申し入れてきた。この場合、将軍とは近衛大将です。頼朝はすでに右近衛大将でした。右近衛大将、左近衛大将は常置の職で、一応は大将となっていますが、軍事を担当する職でもなんでもない。強そうなのは名前だけで、もともとは貴族が就くものです。

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