渋沢栄一の「鉄道初体験」は意外な場所だった 日本での開業より前に可能性を見抜いた洞察力

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これらは鉄道の開業とされているが、あくまでも旅客列車の開業ということになっている。貨物用の鉄道に限定すれば日本にはもっと古くから鉄道が活用されていた。新橋駅―横浜駅間の開業よりも3年ほど早い1869(明治2)年、北海道の茅沼(かやぬま)炭鉱から港までの区間に石炭を運搬する産業用の鉄道が運行されていた。運炭用の鉄道といっても、実際はトロッコに近いものだった。仮に茅沼炭鉱の産業用鉄道を日本初とするなら、渋沢の鉄道初体験は、こうした産業用鉄道だったのだろうか? これも違う。

実は、渋沢の鉄道初体験は国内ではなかった。渋沢が鉄道に初乗車したのは、さらに2年前、1867(慶応3)年にスエズからアレクサンドリアまでの区間だった。つまり、現在のエジプトで鉄道に初乗車したことになる。

なぜ渋沢はパリに向かったのか

渋沢はスエズからアレクサンドリアまでという異国の地で、初めて鉄道に乗車した。なぜ、渋沢がそんなところにいたのかといえば、フランス・パリで開催される万国博覧会に参加するための道中だったからだ。1853(嘉永6)年にペリー提督の率いる蒸気船が来航。これを機に徳川幕府は長く続いた鎖国体制を見直すことになった。200年以上も続いた鎖国体制は、1858(安政5)年に幕を降ろす。鎖国が終わったことで、諸外国との交流・交渉という仕事が新たに生じた。

日本を代表して、政権を担当していた徳川幕府が諸外国との外交を担当することになるが、当時の将軍家は継嗣問題で混乱していた。そうした中、徳川政権を打倒する動きも活発化する。徳川体制は危機に瀕したが、それでも15代将軍に就任した徳川慶喜は、外交上の関係から徳川昭武をフランス・パリで開催される万国博覧会へと派遣した。昭武は慶喜の弟にあたり、清水徳川家の当主だった。それだけに昭武は将軍・慶喜の名代に相応しい人物だが、いかんせん若すぎた。そのため、清水家が総出で昭武の護衛につき、渋沢も会計担当者と身の回りの世話係として同行することになった。

日本初の万博参加という大役を果たすために、一行は横浜から出航。上海・香港・ホーチミン・シンガポール・インド沖のセイロン島・アラビア半島の南端に位置するアデンを経て、スエズに到着。

当時、スエズ運河は開削工事中で、船で通ることはできなかった。そのため、一行は下船し、いったんは陸路をとる。これが、渋沢にとっての鉄道初体験となった。スエズからの車中、渋沢はスエズ運河の開削工事を目にした。またピラミッドやスフィンクスの近くも通っているものの、夜間のためによく見えなかったという。

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