元ガンプラ少年が「動くガンダム」実現した半生 ロボ研究→建機メーカー勤務の技術屋が尽力

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石井氏が生まれたのは、1974年のこと。劇場版アニメをきっかけにガンダムシリーズに熱中した同氏がとくに入れ込んだのは、ガンダムのプラモデルだった。「好きだったのは、(敵側の人型兵器である)ジオン公国系の『ドム』。脚がロケットになっているなど、重厚な造形にひかれたんです」。ガンプラ熱は、じきにロボット開発への関心に発展していく。

【2020年12月26日11時35分追記】初出時の表記を一部修正いたします。

早稲田大学で人型ロボットの研究をしていた石井氏(提供:早稲田大学)

1993年、早稲田大学の理工学部に入学した石井氏が所属したのは、当時ヒューマノイドロボットの研究をしていた研究室。1973年に世界で初めて人型ロボット「WABOT(ワボット)」を開発した加藤一郎教授の系統だった。

そこで取り組んだのが、2足歩行の人型ロボット「WABIAN(ワビアン)」の開発だ。ただ歩行するだけでなく、2本の腕を固定して荷物を運搬するといった実用的な研究も行った。

貴重な経験ではあったが、修士課程を終えたあとに大学に残って研究者になる道は考えなかったという。野望があったからだ。「等身大ではなく、もっと大きくて人が乗れるような人型ロボットを動かしたい」。

ガンダム建機のドアは「ハッチ」を意識

そこで就職したのが日立建機。石井氏が携わった建機の代表作ともいえる、ガンダム建機ことアスタコが生まれたのもここだった。

一般的なショベルカーは腕が1本しかないため、物を持つ、削るなど動作が限定されるが、アスタコは双腕になることで「物を持ちながら切る」「長い物を安定した状態で運ぶ」といった動作が可能となる。もとは住宅の解体現場などで使われることを想定したものだが、改良版が2011年に発生した東日本大震災の瓦礫処理で活用され、一躍有名になった。

"ガンダム建機”はメディアなどで広まった呼び名で、日立建機が名乗ったものではないが、実は石井氏の頭の中にはガンダムのイメージがつねにあった。アスタコの試作機で運転席のドアが上に開く設計にしたのは、「ガンダムのハッチのようにしたかったから」だという(その後は横開きに仕様変更)。

そんな石井氏にとって、「動くガンダム」のプロジェクトは夢をかなえるまたとない機会だったといえる。「僕の人生において、ガンプラ、WABIAN、アスタコ、動くガンダムは全部1本の線でつながっているんです」。

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