(第8回)フェルマーその頂上への遙かなる道~谷山豊に捧げるレクイエム~(その4)

●若き日本人数学者 谷山豊

1994年、350年以上をかけた数学史に残る格闘の歴史に終止符が打たれた。数学者ワイルズがフェルマーの最終定理を証明すべく立ち向かった真の相手は「谷山・志村予想」であった。「谷山・志村予想」の証明が完了した瞬間、フェルマーの最終定理は自動的に証明されたのであった。20世紀の最後に打ち立てられた金字塔には我が日本人の名が刻まれている。
 今その栄誉を受ける谷山豊はこの世に存在しない。31歳で自ら命を絶った谷山がその栄誉を知るはずもなかった。その事実を知った時から私は谷山豊という数学者に得も言われぬ思いがわいた。それは当初、悲劇の主人公にセンチメンタルな気持ちを抱いたものであった。しかし、そのありがちな思いが私の中から除かれたとき得も言われぬ思いの本当の正体を知ることになった。

私の手元には「谷山豊全集[増補版]」(1994年、日本評論社発行)がある。生前の谷山の足跡をまとめたほとんど唯一の資料である。手記、論文、往復書簡等が載っている。谷山の遺言で締めくくられているその全集を読むにつけ数学者という人種の生き様を考えさせられた。フェルマーの最終定理で知ることになる谷山豊というひとりの数学者は私の中で次第に人間、谷山豊の関心に変わっていった。簡単に言えば「数学者として自殺をする理由とは何なのか」という素朴な疑問であった。純粋数学の代表である整数論はガウスをして「数学の女王」とまでいわせしめた。素学の王道である整数論を専門とした谷山に何があったのか。能力の限界を感じただけで自らの命を絶つまでに至るのか、私には理解できなかった。はたして、たとえ数学ができずとも生き続けるという道はなかった31歳の谷山豊に惹きつけられていった。

その私の願いは2006年、二つの出会いによって叶えられた。谷山豊の実兄である谷山清司氏に会い、直接に谷山豊の話を聞くことができた。そして、アメリカ在住の数学者志村五郎と電話で話を聞くことができたことだった。その二つの出来事に行き着くまではまた別な幸運なる出会いがあったのであるが、その話はまた別な機会に譲ることにして、60年以上前の谷山豊を知る生き証人の証言からみえてきた風景をここに紹介することにする。

●谷山豊の兄、谷山清司氏に会う

昭和2年(1927年) 谷山豊は埼玉県騎西町に生まれた。豊(トヨ)と名付けられたが、周りにユタカと呼ばれるようになり、後に自分でもユタカと名乗るようになった。
 昭和7年(1932年) 幼稚園に入園するが、人間関係がうまく築けずすぐに退園する。
 昭和20年(1945年) 浦和高等学校に入学。
 昭和25年(1950年) 高校卒業後病気療養のため大学進学がおくれ、ようやく東京大学理学部数学科(旧制)に入学した。

昭和28年(1953年) 東京大学理学部数学科を卒業。新数学人集団(略称SSS)結成に尽力した。
 昭和29年(1954年) 東京大学理学部数学科助手となる。終の棲家となる豊島区池袋のアパート静山荘に住み始める。このころから楕円曲線のゼータ関数について考察を行う。

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