「裁判官も人の子」と驚かされる情実人事の記憶 男性裁判官が「育休」を取ったら左遷された話

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実は、この研究会が開かれる2カ月前の2001年10月、裁判官のライフスタイルの変化を象徴する出来事が大阪地裁で起こっていた。当時、大阪地裁の右陪席裁判官だった平野哲郎は、男性裁判官としてはじめて育児休業を取得したのである。

平野の妻は元家庭裁判所の調査官補で、退職後、医大に進学するが、医大1年生のときに妊娠がわかった。平野は、現役生より一回り遅れで医学部に入った妻が休学するのではなく、自身が育児休業を取って主体的に子育てに関わろうとした。これが、図らずも裁判所の旧態依然とした価値観に一石を投ずることとなったのだ。

裁判所の育児休業制度は、1991年12月に制定され、平野が申請した時点でほぼ10年が経過していた。しかし上司だった裁判長は、その取得に難色を示した。取得すれば次の異動は遠隔地の勤務になるかもしれないとほのめかし、「せっかく希望どおりに来てるんだから……」と再考を促したのである。

東大法学部を卒業して24歳で裁判官に任官した平野は、大都市圏の裁判所で着実に経験を積んできたエリート裁判官だった。

育休取得のため「上申書」を書くことに

将来を考えれば、上司の指示に従うのが賢い処世術なのだろうが、平野は聞き入れなかった。上司の裁判長は、自分の部から男性初の育休裁判官が出ることで、管理能力を問われることを怖れたのかもしれない。嫌がらせとも思える指示を出している。育児休業の取得について次のような「上申書」を書くよう命じたのである。

「育児休暇中に周りに迷惑をかけて申し訳ありません。職務復帰後は迷惑をかけた分を取り返します」――。

それまで育休を取った女性裁判官で、このような「上申書」を書かされた人はいなかったという。そればかりか、平野が責任者として進めていた「民事執行改革プロジェクト」からも外されてしまった。不動産競売事件における評価基準の見直しをするため、評価人(不動産鑑定士)たちと定期的に行っていたミーティングに参加しなくてもよいと言われたのだ。

そしてこの裁判長だけでなく、裁判長の意を忖度した同じ部の裁判官たちからも無視されるようになった。裁判所の組織体質に嫌気がさした平野は、育休の終了とともに依願退官することを決めた。前途有望な裁判官が退官を決めたことで、育休取得によって不利益な扱いを受けたのではないかという噂が、法曹関係者の間に広まっていった。

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