ホンダモーターチャイナは廃墟の掃除から 桃山学院大学客員教授・門脇轟二氏①

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かどわき・こうじ 1942年生まれ。65年大阪外国語大学中国語学科卒業、本田技研工業入社。欧米など海外畑を歩み、98年に広州汽車と合弁設立した広州本田汽車有限公司の総経理就任。2000年には外国人として初の広東省労働模範に選ばれる。07年より桃山学院大学客員教授。

香港にあるホンダモーターチャイナ社長に就いたのが1993年。4輪事業のチャンスを探るため、北京の中央政府の方と意見交換を重ねた。だが、香港からの「通い」では相手もよそ者としか見ない。会社を副総経理に任せて、95年に1人で北京事務所へ移りました。

 当時、ホンダは東風汽車と合弁で部品生産をしており、96年暮れに東風幹部から「広州プジョーが撤退する話がある」と言われたのが、広州乗用車プロジェクトの契機です。

実は現地生産を始める前に、ホンダの輸入車が売られていた関係で、中国の主要都市に60カ所ほどサービスショップを整えていた。自動車は購入してから3年、5年、10年、とお客さんとの長い付き合いが始まる。そこできちっとしたサービスができるかが重要だというのが私の信念です。当時、乗用車市場は官公庁向けかタクシーが中心で、先行する外資も量をさばいて終わり。幸いサービス態勢の概念が薄く、個人需要の伸びを狙い、これを充実させればうまくいくとの思いがあった。

交渉段階から入ることが重要

ただ、引き継いだ広州プジョーの工場はさながら廃墟でした。ろくに生産をしていないから窓ガラスは割れレンガ塀にカビも生えており、最初の2週間はほうきを持ってひたすら掃除。社員もいやいやでしたが、1000人以上の人が一斉にやるとどんどんきれいになる。今では工場内の清掃が習慣になっています。

経営の透明化の一環で、私を含む経営幹部4名(広州側2名)の部屋はガラス張りに変えて会議室兼用にした。毎朝そこで意見交換です。言い合いになれば外からすぐわかる。でも一歩部屋から出たら会議で意思統一したことだけを発信しようと決めていました。幹部が一枚岩ならば従業員との相互信頼につながります。

一度、プジョーとやって失敗しているので、広州側の経営幹部から従業員まで、今度はまずホンダを信じてやろうという思いが強かったことも幸いでした。事業方針は関係者全員が参加する公開の場で決めました。一つ決めるのに2日かかったこともあります。要はどんな議論を経て結論を出したかを共有することが大事なんです。

日本企業が合弁事業を始めるとき、交渉役と後に就く現地責任者が違うことが多い。だが、経過を知らない人が来て「よいものを作ろう」と言っても難しい。その点、私と広州側の副総経理は基本合意後の交渉を一緒にやってきたからよかった。海外事業の責任者になる人は交渉段階から入ることが重要だと思います。

週刊東洋経済編集部
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