フランスワインの定着 その2:ローマ市場の変調《ワイン片手に経営論》第6回

■ローマ皇帝による価格下落対策

 こうした由々しき事態に手を打ったのがローマ皇帝のドミティアヌス帝(在位81-96)の92年に発効した勅令でした。この勅令とは「過熱したぶどう栽培がワインの過剰生産と麦不足をまねき、耕作地がうち捨てられてしまったことを確信した皇帝は、イタリアに新たなぶどう園を作ることを禁じ、属州にはぶどう畑のすくなくとも半分を引き抜くよう命じた」(*1)というものでした。

 この皇帝の勅令には三つの意図があったと考えられます。
1.ローマ産ワインを保護し、フランス産ワインに対抗するため
2.大衆向けの悪質なワインを市場から排除するため
3.麦やトウモロコシなどの主食原料の不足を解消するため
 一つめの意図は、イタリアワイン対フランスワインという構図であり、われわれの興味をそそります。特に、当時の壺に刻まれた「ピクトゥムを控えよ、アミナエウムを与えよ」(*2)という宣伝広告などからも、両者が競争をしていたことが窺われ、ドミティアヌス帝がイタリアワインを保護しようと腐心していたことが想像されます。なお、ピクトゥムとは、ガリアのヴィエンヌで生産された当時の人気ワインであり、アミナエウムはイタリアで生産され、先ほど登場したファレルヌムというワインのブドウ品種で、当時の人たちの畏敬の対象であった人気ワインです。しかし、国益という意味では、ガリアもローマの属州になっていたので、この対抗心というのはあくまでも矜持論であって、経済的な防衛論ではなかったと思われます。

 そこで、ドミティアヌス帝が最も重視した意図は、2および3の両方ではなかったかと、想像します。特に、2の意図の意味合いは次の通りです。ローマの人たちが、ポンペイの消失の後、ワイン不足に慌て、あちらこちらで低級品種を使って収量を確保しながらブドウ畑を拡張しました。しかし、品質は決して高いワインではありませんから、長距離輸送のコストを払って遠くガリアや地中海沿岸の市場に売りさばくわけにも行きません。結局、こうしたワインは低コストでありますが、輸送コストのかからない地元で消費されることになるのです。これは、民衆へのワインの普及を促進するにせよ、ローマに低級ワインがあふれ価格下落を後押しすることになるのです。ドミティアヌス帝は、こうした事態をきっと憂えていたのだと思われるのです。

 しかし、結局のところ、この措置は当初の目論見どおりには進まなかったようです。特に、ローマから程遠いガリアの畑にあるブドウの木を実際に引き抜いたかどうかを監視するのは、あまり現実的でなかったと思われます。そもそも最初にどのくらい畑があったかも分っていなかったかもしれません。ドミティアヌス帝の勅令は、多少、ガリアのブドウ栽培の北進を遅らせたかもしれませんが、実質的な効果はあまりなかったのではないでしょうか。また、ほぼ自由な交易が行われていた市場経済において、いくら管理能力の高いローマ人であっても、現在の我々にとっても困難な市場のコントロールは難しかったに違いありません。

 このようにドミティアヌス帝の勅令の効果は華々しいものではなかったと考えられますが、当時の人たちが表立ってブドウ畑の拡大を出来るわけでもなく、地味にブドウ栽培が続けられていたはずです。そして、この勅令はプロブス帝(在位232-282年)の時代になって、ようやく解除され、それ以降、フランスワインのブドウ栽培の北進が本格化していくのです。そして、このような経緯を経て、この時期のワインの生産地の中心が、徐々にローマ帝国からフランスへとシフトしていったのではないかと想像します。

 以上、ワイン産業の中心がどのようにシフトしていったのかをいくつかの資料に記述された史実をベースに私なりに想像し、お話をしてみました。そして、次回以降いよいよフランスでいかにブドウ栽培が定着し、ワインビジネスが広がっていったかを綴っていきたいと思います。

*1 『ワイン物語 上』(平凡社)より
*2 『フランスワイン文化史全書 ブドウ畑とワインの歴史』(国書刊行会)より
*参考文献 
ロジェ・ディオン、『フランスワイン文化史全書 ブドウ畑とワインの歴史』、国書刊行会
ヒュー・ジョンション、『ワイン物語 上』、平凡社
《プロフィール》
前田琢磨(まえだ・たくま)
慶應義塾大学理工学部物理学科卒業。横河電機株式会社にてエンジニアリング業務に従事。カーネギーメロン大学産業経営大学院(MBA)修了後、アーサー・ディ・リトル・ジャパン株式会社入社。現在、プリンシパルとして経営戦略、技術戦略、知財戦略に関するコンサルティングを実施。翻訳書に『経営と技術 テクノロジーを活かす経営が企業の明暗を分ける』(英治出版)。日本ソムリエ協会認定ワインエキスパート。
◆この記事は、「GLOBIS.JP」に2009年3月3日に掲載された記事を、東洋経済オンラインの読者向けに再構成したものです。
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