(言論編・第二話)脱藩

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 もちろん、当時の私は「脱藩」という大それたことを意識して行動したわけではない。ただ、20年近いサラリーマンの生活から会社を辞め、非営利の世界に飛び出すにはそれなりの覚悟が必要だった。
 私がかつて編集長を務めた「論争 東洋経済」は東洋経済新報社の100周年を記念して1996年4月に創刊されたオピニオン誌である。石橋湛山氏(後の首相)ら多くの言論人を輩出した東洋経済は、戦争時の言論統制下でも侵略行動に反対し、自由主義、リベラリズムを基本理念に議論をし続けた。
 強烈な印象となって今でも思いだせるのは、その100周年を記念して新聞に載った全面広告の一節である。
 「健全な経済社会は健全な個人の発達に待たざるべからず。政府に対しては監督者、忠告者、苦言者となり、実業界に対しては親切な忠告者、着実な訓戒者、高識にして迂遠ならざる先導者とならん」
 東洋経済の創始者で戦前の二大政党の一つで民政党の総裁である町田忠治氏の「東洋経済新報」創刊の辞の要約だった。別に私は、レトロな文面が趣味だというのではない。が、その100年前の復刻調の檄文は、今の時代でもそのままの形で通用するように、言論の、またはその舞台に立とうとする人間の自覚や使命感が見事に語られている。
 私が、言論ということを強く意識するようになったのはその広告を見た時からだったと、思う。

 そのころの日本経済は、バブル崩壊後の経済危機の実態を100兆円を越す財政の出動などで覆い隠し、その解決も先送りし続けていた。社会には現在の日本と同じようにモラルハザード(倫理観の欠如)や無気力の風潮が広がっていた。
 編集長時代の私は、こうした経済論争を中心に政治改革や国家戦略まで幅広い議論を企ててきた。日本の未来のために編集者やジャーナリズムの立場や覚悟が問われている。そういう気負いが私にはあった。つまり、国に頼り、解決の先送りを続けるのか、あるいは主体的に解決するのかという選択である。
 私が主張し続けたのは経済危機からの再生と新しい国づくりを、国だけに頼るのではなく、個人がこの状況を自覚し、自らの挑戦で成し遂げることだった。この日本にこそ成長のフロンティアがあると信じたのである。  だが、私のこうした編集者としての挑戦は、出版不況の荒波の中でわずか2年で休刊という形で"敗戦"を迎えることになる。創刊から5年目の2001年の5月のことである。
 それが私の決定的な転機となった。

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