放映権ビジネスの最前線に飛び込んだ日本人 岡部恭英 テレビ放映権セールスマネジャー

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W杯日韓大会に魅了 本場のイギリスへ

千葉県出身の岡部がサッカーを始めたのは高校時代。走力には自信があり、慶応大学のサッカー部でもレギュラーを目指した。残念ながら4年生の最後までベンチ要員だったが、サッカーに全力で打ち込んだという自負はある。

大学卒業後、「外国で働きたい」という希望で総合商社の太知に入社。ベトナム支社を経て、化学品の専門商社である長瀬産業に転職。シンガポール支社で半導体の営業などを担当し、01年には学生時代からあこがれていた米国へ転勤した。

カリフォルニアでプール付きのアパートに住み、妻と二人で悠々自適に暮らす日々。だが米国に移り住んでからというもの、岡部は漠然とした物足りなさを感じていた。

「もともとハイテク産業に愛着があったわけではなく、『アメリカで働く』という目標を達成してしまってからは、次の目標を設定できなくなっていた」

そんなとき出合ったのが02年のW杯日韓大会だった。岡部は言う。

「W杯の熱気にすっかり魅了された。いつか日本のW杯優勝にピッチ外から貢献したい--。それが新たな目標になったんです。そのためには、まずサッカーの本場である欧州に飛び込もうと思った」

岡部が選んだ道は、サッカーの母国・イギリスでMBA(経営学修士)を取得することだった。

「ヨーロッパの大学院で勉強しながら、サッカー界へのパイプを作ろうと考えたんです。ビジネス界で有名な経営大学院より、サッカー界で知られている大学がいいと思って、ケンブリッジ大学を選びました」

岡部はシリコンバレーで働く傍ら、大学院受験のための勉強を続けた。帰国子女でMBAを持つ妻のアドバイスもあり04年、ケンブリッジ大学大学院に合格。このとき岡部はある誘惑に駆られることになる。勤務先の商社から「留学費用を持つから会社に残らないか」と誘われたのだ。だが岡部にとって幸運だったのは、最も身近にいた妻が、厳しい監督者だったことである。

「退路を絶ちなさい。中途半端なことをしたら、あなたは成功しない」

妻のアドバイスどおり、岡部は退職届を出した。32歳にして収入はゼロに。もうがむしゃらに突き進むしかない--。岡部は後々、妻がなぜそれほど自信を持って背中を押してくれたのかがわかった気がした。ケンブリッジに入学すると、妻はすぐに自分の担当教授の助手として職を得たからである。

「こんなにできた妻はいません。助けてもらってばかりですよ」

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