プーチンが密かに狙う北方領土「1島返還」 日本の立場に不満を示している

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「前提条件なしに年内に平和条約を」といった最近の大統領の対日発言を見ると、領土問題でのロシアの落としどころは歯舞諸島だけの「1島返還」ではないかと思えてくる。

2島返還なら「1本勝ち」

国後、択捉について大統領は「1956年の日ソ共同宣言にはひと言も書かれていない」などと帰属協議を一貫して拒否している。歯舞、色丹の引き渡しをうたった56年宣言についても、「2島の主権がどちらに属するかなど引き渡し条件は何も書かれていない」とし、無条件で返すわけではないと強調している。

外交筋によれば、2015年11月のトルコでの首脳会談で、安倍首相が56年宣言が2島引き渡しを明記していることを指摘すると、プーチン大統領は「それでは日本の1本勝ちじゃないか」と反発したという。大統領の落としどころは柔道用語の「引き分け」であり、2島が交渉対象になる場合、「引き分け」とは歯舞、色丹の分割となる。

色丹島にはロシア人が3000人近く居住し、千島社会経済発展計画に沿ってインフラ整備も強化している。返還の場合、補償や手続きが面倒なのに対し、歯舞には国境警備隊が駐留するだけで、引き渡しは容易だ。先に平和条約を結ぶと、56年宣言に沿って2島引き渡し交渉が行われるが、2島が丸ごと戻ってくるわけではなさそうだ。歯舞だけなら4島全体の面積の2%にすぎず、日本の外交は完敗となってしまう。

愛国主義や大国主義の風潮に乗るロシアの日本専門家の大半はプーチン提案に好意的だが、唯一批判的だったのが、ボリス・エリツィン政権初期の外務次官として対日外交を担当したゲオルギー・クナーゼ氏だった。

クナーゼ氏はラジオ局『モスクワのこだま』で、「前提条件なしの平和条約締結」提案について、「全く実現の見込みはない。一種のトロール網のようなものだ。プーチン自身も期待はしていないだろう。日本にとっては、ロシアが問題の解決を望んでいないことを新たに示しただけだ。安倍にとって、この提案を受け入れることは政治的自殺行為になる」とコメントした。

同氏はウクライナ紙とのインタビューでは、「これほど侮辱的な提案は、ソ連のレオニード・ブレジネフ時代ですら日本に行わなかった」と酷評した。クナーゼ氏は在任中、早期平和条約締結というエリツィン路線に沿って、戦勝国の論理を否定する新たな対日外交を推進した。「法と正義」による領土問題解決を主張し、日本の立場も理解していただけに、過去の日露交渉の歩みを否定するようなプーチン提案は衝撃だったようだ。

クナーゼ氏と言えば、ソ連崩壊直後の1992年3月、国後、択捉の帰属協議と歯舞、色丹の返還協議を同時並行で進め、合意したら平和条約を締結するとの秘密提案を日本側に打診したことがある。しかし、4島返還を当然視した日本政府・外務省はクナーゼ提案を時間稼ぎとみなして無視した。クナーゼ提案を基に本格交渉を行っていれば、当時の日露の圧倒的な国力格差から見て、歯舞、色丹は確実に日本領となり、国後、択捉は結局は分割され、「3島プラスアルファ」のような解決策が有力だっただろう。

2001年のイルクーツク会談では、今度は森喜朗首相がクナーゼ提案と瓜二つの並行協議案をプーチン大統領に提案したが、ロシアが無視した。

1992年のクナーゼ提案は、一握りの外務省幹部が拒否を決め、官邸にもほとんど報告していなかったと言われる。ソ連崩壊から27年も経て、北方領土問題がますます後退している責任は、92年に千載一遇の機会をみすみす座視した当時の外務省幹部にある。失敗を繰り返さないためにも、外務省は文書公開を通じて当時の責任の所在を明確にしておくべきだろう

(文:ジャーナリスト 名越 健郎)

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「Foresight」編集部

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