「漢方のツムラ」多角化失敗からの超復活劇 医療用漢方薬シェア8割、125年の歴史に迫る

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戦後、日本全国で何もかもが不足するなか、再び津村順天堂を復活させるべく2代目重舎はすぐに動き始める。「津村順天堂の名を日本橋から消してはならぬ」と事業を再開した。終戦から7年後の1952年(昭和27年)、日本橋に新本社ビルを完成させると、その後の高度経済成長による内風呂の普及も相まって入浴剤バスクリンがヒットするなど、業績を順調に伸ばしていく。

創業時から販売している「中将湯」(写真:ツムラ提供)

また、漢方の復権への取り組みも着実に進め、本社ビルに漢方診療所を開設。1976年(昭和51年)には津村順天堂の医療用漢方製剤33処方が薬価基準に収載されたことで、健康保険適用薬として医療現場で使われるようになり、漢方の復権を成し遂げた。

戦後の苦難から復活を遂げ、1982年(昭和57年)には東証1部上場し、名実ともに一流企業の仲間入りをした。

事業の多角化で業績が悪化

バスクリンの人気とその宣伝効果から“バスクリンの津村順天堂”というイメージが定着していた当時のツムラ。漢方を原点とし最先端の技術を使った総合健康産業を目指し、創業から95年目の1988年(昭和63年)、社名を津村順天堂からツムラへ、シンボルマークも変え新たなスタートを切った。

しかし1990年代に入り、1980年代後半に進めた急速な事業の多角化が、ツムラの財務を著しく悪化させることとなる。1992年3月期には売上高1375億円、純損失32億円(前1991年3月期は純利益5.8億円)の赤字に転落し、その後3期連続で純損失を計上した。危機を脱すべく、第一製薬(現・第一三共)の常務取締役を務めていた創業家の縁戚にあたる風間八左衛門氏を1995年に社長として迎え、経営改善に着手した。

漢方の原料となる生薬(写真:ツムラ提供)

だが、その直後に医療用漢方製剤で副作用が起きたという報道が出て、状況はさらに悪化。かつてない窮地に追い込まれていく。

2001年3月期には売上高738億円、純損失194億円の過去最大の赤字を計上した。「赤字と銀行借り入れ過多が重なり、当時はもう一歩で債務超過というところまで来ていた」(加藤照和現・社長)。

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