私がそれでも道徳の「教科化」に賛成するワケ 「自由、民主主義、愛国心」を論理的に考える

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このことは、「道徳の教科化」が「英語の教科化」(すでに小学校5年生から必修化されている「外国語活動」が、2020年から、「英語」という「教科」になります。「外国語活動」は、小学校3年生からに前倒しされます)とセットで推進されていることや、あらゆる道徳教科書が「夢に向かってがんばろう」を中心的なテーマとし、「夢」に向かって懸命に努力し、グローバルに活躍する日本人(メジャーリーガーやオリンピックの金メダリストなど)を、これでもかとばかりに多数取り上げていることにも、ありありと表れています。

大きな「夢」を抱き、その実現のために必死になって「個性」や「自分らしさ」を磨き、英語を勉強して海外に出ていき、グローバルに活躍して、世界市場と外需を奪ってくる。そういう「人材」(「グローバル人材」!)を「生産」することこそ、「道徳の教科化」の何よりの目的なのです。

それでも「教科化」に賛成する理由

そう考えれば、この「教科化」を中心とする現政権の道徳教育推進政策は、とうてい支持できるものではありません。私ははっきりと、これは「教育の目的」は「人格の完成」であると定めた、教育基本法第1条に違反していると考えています。「人格」とは、まず何よりも、人間が単なる「生産手段」や「物」ではないことを意味する概念なのですから。

しかし、そこまで言っておきながら、と思われるかもしれませんが、それでもなお、私は実は、「道徳の教科化」そのものには、賛成なのです。そして、「危険なナショナリズムだ」「愛国心の復活だ」「道徳は個人の内面の問題だ、国家がそこに介入するのは自由の侵害だ」等々といった、お定まりの道徳教育批判は、まったくナンセンスであるとも考えています。

論理的に考えれば、国家は国民に、特定の「道徳」を、教育しなければなりません。それは、公教育が担っている、最も本質的な役割の1つなのです。

なぜでしょうか。理由は単純明快です。

それは、民主主義の国家と社会は、それを成り立たせるために、いくつかの特定の道徳的な価値を必要とするからです。すべての国民が、それを教育されることによって、はじめて民主主義は可能になります。いや、より正確に言えば、それを教育された人間が、はじめて「国民」と呼ばれ、その国民の存在によって、はじめて民主主義が可能になるのです。

普通に考えれば、これはあまりにも当然のことではないでしょうか。そもそも、民主主義なるもの自体が、1つの特定の価値なのですから。子どもたちに「民主主義が大事ですよ」と教えるならば、それは子どもたちに、民主主義という特定の価値を押し付け、それを大事にするよう、強制するということです。「自由を守れ」「人権を尊重せよ」「人は平等であるべきだ」等々も、まったく同じです。これらは、明らかに特定の価値の押し付けであり、強制なのです。

事実、私たち「大人」は、自由や人権や平等を大切にするよう、法律によって強制されているではありませんか。それによって、はじめて民主主義の国家と社会が成り立っているのです。そして、すべての子どもたちを、そういう国家と社会の形成者である「大人」へと育て上げるために、「学校」という、「義務教育」(これは本来、「強制教育」と訳すべき概念です)の制度が存在しているわけです。

だから、自由や人権や平等といった、道徳的な価値の押し付けは、実は、学校という教育制度の本質にほかなりません。「道徳」とは、本来、それを教えるための教科なのです。

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