《戦略講座》東レの炭素繊維事業を「デルタモデル」で解説する

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■苦難の歴史の果てに見えた「システム・ロックイン」

 多くの優良企業は従来、「ベスト・プロダクト」によって競争優位を構築してきた。しかし近年は、顧客や業界内での絆(ボンディング)を重視した戦略がより強く、高収益の事業構造を達成しやすいのが現実だ。従い、顧客との絆を考慮して「カスタマー・ソリューション」に、さらに業界内の補完者や業界標準を重視して「システム・ロックイン」に向かうことで競争戦略を高度化できる、というのが、ハックスらの主張だ。

 さて、この「トライアングル」に東レの炭素繊維事業を当てはめて考えてみよう。ボーイング社の契約締結により、この事業がシステム・ロックインの状態に入ったものと筆者が考察していることは先に述べたとおりだ。

 前段に、「需要がないからコストダウンが図れない」「価格が下がらないから需要が拡大しない」という悪循環についても触れたが、これは裏を返せば、大口の顧客(例えばボーイング社のような)と契約し、研究開発体制と設備投資を確定できれば、品質・価格面でのデメリットは解消していかれるということでもあろう。

 顧客側にしても、(機体の軽量化・組み立て作業工数の削減など)競合(例えばエアバス社のような)優位を得られる素材をリーズナブルな価格で安定的に確保できるのであれば、独占的に契約したいという意思は働くだろう。とりわけ、その供給元が、あたかも自社の一部であるかのように、(航空機の設計要件に適切な)素材の改良に取り組み、価格低減の努力を怠らなければ、なおさらのことである。彼らは購買した素材を自社の設計に最適化する手間をかけたり、生産が遅れる・素材が調達できなくて結局は高額な対価を支払ったり(大量に使用する素材であればなおさら)といった無駄は省きたいと考えるからである。

 しかも、仮に供給元が多数あり、競争が激しい状態にあれば、2社購買も奏功するが、炭素繊維メーカーは前述のとおり、わずか3社が業界を寡占する素材である。3社を頻繁に競わせて、価格面での僅かな便益を狙うよりは、1社に独占させて、品質改良や規模化によるコスト低減を促進するほうが得策と考えるのは自然な流れだ。

 そして、追随する他の顧客(例えば中小規模の航空機を生産するメーカーのような)も、価格や品質面でのメリットが出始め、また安全性の実証がされていけば、業界標準の素材として(東レの炭素繊維を)選ばざるを得なくなる。

 つまり、ひとたび(航空機の生産の)主要な素材として採用されれば、業界内での「システム・ロックイン」状態を築くことは比較的、容易と言えよう。

■システム・ロックインに導く共同開発型事業

 独占契約のほうが得策とボーイング社をして思わせるため、東レは無論、不断の努力を見せてきた。

 周知のとおり、航空機産業、特に大型ジェットの開発・生産はプレイヤーが非常に少なく、実質的にはエアバス社とボーイング社の一騎打ちの状態が長く続いている。もちろん、これら2社が開発・生産の全てを負うわけではなく、世界各国のサプライヤーが関わる。ボーイング社の例で言えば、「ボーイング787」にかけるボーイング社の“仕事量”は35%程度。今回、三菱重工、川崎重工、富士重工など日本メーカーが、同社と同等の35%と大きく食い込んだことが報道されている。

 東レは、炭素繊維に樹脂を含ませてシート状にした「プリプレグ」を三菱重工ら3重工に納入、このプリプレグが型の上に張り付けられ、高温加圧炉で翼や胴体として一体成形される。

 同社は、このプリプレグの強度や特質をボーイング社が開発する航空機に合わせて最適化し、しかもボーイング社の工場から5分の場所にプリプレグ生産のための工場まで建設(1992年)して、ボーイング社および主要な開発・生産メーカーと共闘する姿勢を取ってきた。
v  その苦難の歴史について、ここで詳説はしないが、「最初に使われたのは73年で、そのときは内部部品だけ。83年に初めて機体の一部に使われ、92年の777でやっと尾翼と主翼の一部に使っていただいた。そして2006年、ようやく787でまさに黒い飛行機が実現した」(『週刊東洋経済』2007年9月8日号)という榊原社長の言葉が全てを物語っているように思う。

 この事例から言えるのは、以下の3つの要件が、システム・ロックインの状態を構築する援けとなったことだろう。
1)研究開発(長期間/巨額の投資/顧客との共同研究を必要とする)が大きい
2)顧客から見て、供給者が限られる(特許、生産設備などによる参入障壁が高い)必需品(代替品との差が大きい)である
3)顧客が数社で市場を構成している

 「技術」「生産設備」「顧客」を独占することにより、長期にわたり業界を支配する構図だ。

 ただ筆者は、このシステム・ロックインの状態が黙っていても保たれると考えているわけではないことは強調しておきたい。東レがこの状態で得た技術力や収益力を次世代の炭素繊維事業のロック(錠前)にして、自社のみが鍵を持っている状態にするには、今以上の切磋琢磨が必要だろう。

 なぜなら、40年にわたる赤字に耐え、炭素繊維にかかる技術を磨いてきたのは東レだけではないからだ。例えば東邦テナックスは、東レと同様にエアバス社との関係を重視している。また、次に大きな市場を形成し得る自動車への採用は、未知数だ(*5)。東レは名古屋に「オートモーティブセンター」と呼ぶ組織を設置し、自動車用炭素繊維複合材の売り上げ拡大の体制を整えているが、この成果いかんでは業界シェアが書き換えられる可能性もなきにもあらずだろう。

 ただ、いずれにしても、“未来の新素材”と注視される炭素繊維について日本企業がリーダーシップを発揮し、そのことが社会を豊かにする一助となる可能性が明確に見えたことは大変に嬉しいと思う。そして、それ以上に、素晴らしい素材・技術を40年以上の歳月をかけ、諦めずに育んだ東レ、日本の炭素繊維メーカーに惜しみない賞賛を与え、今後の活躍を期待したい。

*5 自動車も燃費向上が求められており、炭素繊維の活用が期待されているが、技術課題はまだ多く、これらを解消すべく現在、様々な取り組みが行われている。その一つとして例えば、NEDO(独立行政法人・新エネルギー・産業技術総合開発機構)は、2003年から東レ、日産自動車を中核に、「自動車軽量化炭素繊維強化複合材料の研究開発」と呼ぶ5年間の開発事業を実施。炭素繊維強化プラスチック(CFRP)の成型時間の大幅短縮(160分を10分に)を実現し、今までF1や超高級車に限られていた炭素繊維の活用を400万円台の中高級車に適応可能にする成果を上げている。

《プロフィール》
岡村勝弘(おかむら・かつひろ)
グロービスMBAにて「ベンチャー戦略」講師、大手技術系企業での自社課題講師、企業研修での戦略・マーケティング・MOT講師などを務める。ベンチャー企業の経営コンサルタント。
静岡県生まれ。京都大学農学部卒業。農林水産省、リクルートののち35歳で独立起業。Y&Kカンパニーズ代表取締役(ソフトウェア企画制作販売)、アクセス(iModeのブラウザ開発)、Amazon.com(日本進出)、Apax Globis Partners(ベンチャー・キャピタリスト)。現在、有限会社トレジャークエスト代表取締役。丸の内ビジネス人勉強会主催。
著書に『ロンおじさんの贈りもの-30日間ビジネス・レッスン』『ビジネス・バカを極めろ』。
◆この記事は、「GLOBIS.JP」に2008年4月25日に掲載された記事を、東洋経済オンラインの読者向けに再構成したものです。
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