水商売を漫画にした67歳原作者の剛勇な人生 「女帝」「嬢王」の倉科遼が持つ強烈な原体験

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28歳の時に、『週刊漫画サンデー』(実業之日本社)で週刊連載をするチャンスをもらった。

「このチャンスを生かせなければ、漫画家として先はない」

と感じた。そして本気で考えた。

当時は、本宮ひろ志のバンカラ漫画(『男一匹ガキ大将』など)がブームだった。本宮ひろ志は『週刊少年ジャンプ』で連載をしていた。『少年ジャンプ』を読んでいた少年は成長すると、青年誌を読むようになる。青年誌でもバンカラ漫画を連載すれば当たるのではないかと思った。

そうして始めたのが『会津おとこ賊(うた)』だった。

「学ラン三部作」左から、『武田みけん星』『会津おとこ賊』『昭和バンカラ派』(筆者撮影)

「『会津おとこ賊』は当たりました。単行本が150万部売れましたね。年収もうなぎ上りで2500万円になり、その翌年はその倍になって……と増えていきました」

続けて描いた『武田みけん星』『昭和バンカラ派』もより大きくヒットした。有名なタレントやアスリートが、好きな漫画として取り上げたこともあった。

3作品は、「学ラン三部作」と呼ばれる名シリーズになった。

「35歳になった頃、そろそろバンカラシリーズは終わるなって感じました。じゃあ次は何を描くんだ?と思っても、なかなかアイデアが出ない。悩みました」

「司敬という漫画家は終息してしまった」

趣味であるボクシングをテーマにした『拳闘士』を始めたけど、結果はいま一つだった。トラックのCMのキャラクターに使われたりしたものの、単行本としてはいまいちの売り上げだった。

「その頃は本当に行き詰まっていましたね。アイデアが出ないし、たとえアイデアが出ても売れない。ヒット作が続いていた時期は気持ちよかったですけど、10年経って時代が変わりました。司敬という漫画家は終息してしまったな、と思いました」

時代が変われば、編集者も入れ替わる。新人の編集長は、前任の編集長の手垢がついた作家はあまり使いたがらない。

編集部に冷遇されることもあった。

「40歳になったら漫画家は終わりだなと思ってました。ならば引退した後に自分が勤める会社を作ろうと思って、身銭を切ってアパレル会社と旅行会社を作りました」

会社経営を始めた頃、初めて銀座を知った。一度接待されて足を運んだ豪華なクラブに、知り合いの編集者を連れて飲みに行った。最初は接待され、2度目は接待する立場になった。漫画家になる前にはサラリーマン経験もあったので、ある程度の作法はわかっていた。

その店のママからは

「一流の男の見分け方は、接待したときと、されたときの使い分けができること。あなたは、それができているわ」

と褒められた。

「35歳の時でしたが、どうしたことかそのママとできてしまったんですよね。初めての不倫でした。当時は義理の父ががん治療を受けており家庭内がバタバタしていて。ちょっと気が動転していたのかもしれません」

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