モンベル創業者が語った事業成功への軌跡 一流の登山家が一流の経営者になれた理由

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創業3年目の1977年、いまだ日本の市場を十分に開拓できていない中で、辰野会長は、アルピニズム(近代登山思想)の本場、ヨーロッパへ向かいました。モンベル商品をヨーロッパ市場に売り込むためです。

海外進出を目指したのには理由がありました。ビジネス規模を拡大するには、大きく分けて2つの方法があります。1つは、分野を広げること。つまり、登山という単一商材にこだわらず、野球、サッカーなどスポーツ全般まで手掛ければいいわけです。

しかし、辰野会長は山に関連したビジネスに取り組みたいと考えて起業したので、登山以外のビジネスにまで手を広げようとは思いませんでした。そこでもう1つの方法を選びました。すなわち販売地域の拡大です。

国内市場が頭打ちになれば、海外にその販路を求めればいい、と考えました。創業3年と時期尚早にもみえますが、登山用具に求められるものは世界共通であり、モンベル製品はその要求に十分応えられる、という確固たる自信が挑戦を支えました。

パタゴニアの輸入販売で成長

その際、辰野会長が提携先として選んだのが、環境保護でも世界の最先端を行くパタゴニアです。

創業者イヴォン・シュイナード氏は1960年代を代表するアメリカのクライマーで、ヨセミテを中心に数々の困難な登攀を成し遂げ、その一方で、クライマーのためにアパレルメーカー「パタゴニア」を立ち上げた起業家。モンベルとパタゴニアの両社は技術販売提携契約を結び、モンベル開発の完全防水素材がパタゴニアのレインウエアに使用されていたり、一方でパタゴニア商品の日本国内販売はモンベルが引き受けたり、という親密な関係を構築しました。

辰野会長がシュイナード氏に出会ったのは、1980年。ヨーロッパ最大の登山用品専門店スポーツシューターの店舗拡張パーティがミュンヘンで開かれ、辰野会長も招かれました。唯一の日本人だった辰野会長が、ワイングラス片手に手持ちぶさたでたたずんでいたところに話しかけてきたのが、シュイナード氏だったのです。

クライマーとして、またビジネスパーソンとして共通するところが多く、お互いの人生哲学にも大いに共感するところがありました。その場で、パタゴニアの日本での商売を引き受けてくれないか、との打診があり、パタゴニアの本拠地カリフォルニアに招待されました。

現在の辰野会長(写真:モンベル)

2人でカヌーで波乗り(!)を楽しんだ後、商談が始まります。シュイナード氏は、辰野会長が持参した雨具素材の強靭性に感心。後に、その素材を自社のレインウエアに使用することになります。これ以外にもモンベルは、機能素材、そして縫製仕様上のアイデアを提供し、パタゴニアの商品開発に協力しました。

一方で、モンベルが引き受けた日本国内でのパタゴニア商品の販売も、当初は苦労するものの、アメリカのライフスタイルがわが国に浸透するにつれ、徐々に売り上げは拡大していきました。取引開始後3年目の1987年2月期には、モンベルの総売り上げの4分の1を占めるまでになったのです。

業績は順調に伸びていましたが、辰野会長の心には葛藤が生じていました。パタゴニア商品が売れれば売れるほど、モンベルというブランドの存在意義が薄れる、と思えたのです。心情論だけでなく、他社ブランドに頼りすぎることのリスクもありました。M&Aが日常茶飯事のアメリカビジネス界で、パタゴニアの経営権が譲渡される可能性もないとは言えません。

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