「西郷どん」は本当に立派な人物だったのか 2018年NHK大河主人公の「がっかりな実像」

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同じ薩摩で西郷の幼馴染であった大久保利通も、無口で実直そうだが、なかなかの女好きで、祇園一力(いちりき)のお勇を囲って子どもをもうけたという。

討幕のシンボルとされる「錦の御旗」は、岩倉具視の側近となる国学者の玉松操(たままつみさお)がでっち上げた草案だが、その材料となる西陣織を買いにやらされたのが、このお勇である。

大久保はこれを長州の品川弥二郎に渡して、「錦の御旗」を作らせた。これが突如として鳥羽・伏見の戦いの最中に翻ったのである。

「討幕の密勅」といい、「錦の御旗」といい、すでに大久保や西郷は、「偽造」と「欺瞞」によって、何が何でも討幕を果たそうとしていたのである。

ちなみに玉松操は「討幕の密勅」にも関与していたが、純粋な「尊皇攘夷派」で、明治新政府の開国方針を約束違反として批判、新政府の招きを拒絶している。

残虐な策謀家としての側面

幕末の日本は開国したものの、いかに外国勢力から自立するかが急務であった。それには国内戦争をせずに外国からの介入を防ぐことである。幕府はもちろん、勝海舟や坂本龍馬も、そのことに腐心していた。

ところが薩摩も長州も、国内の権力闘争に目を向けた。とくに西郷は「自藩意識」だけで行動していた。

西郷は、勝海舟から、幕府を解体して雄藩連合で平和裏に日本をまとめる必要がある、といわれて、はじめて日本を意識するようになったというが、それでも「自藩意識」を取り去ることができない。

西郷にとって薩摩藩は、幕府に代わる権力主体と考え続けたのである。そのためには、さまざまな謀略や恐喝、暴動計画を実行する。

平和的な政権移行として「大政奉還」が行われても、西郷は武力による政権奪取を放棄しなかった。国内戦争への道を追求したのである。

徳川慶喜の「大政奉還」によって新国家への道が開けたと喜ぶ坂本龍馬の暗殺に加担したのは、どうも西郷や大久保であったようである(参考:明治維新より輝かしい「大政奉還」という偉業)。

新体制を決める小御所(こごしょ)会議でも、西郷は「短刀一本あればすむことだ」と反対派を恫喝し、幕府が到底のめない処置を決定させている。冷酷な武闘主義者ぶりを見せたのである。

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