「M-1グランプリ」がここまで別格を保つ理由 笑いの真剣勝負を演出する仕掛けの裏側

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漫才日本一決定戦「M-1グランプリ2017」で優勝し笑顔を見せるとろサーモン。村田秀亮(左)と久保田かずのぶ=2017年12月3日(写真:日刊スポーツ新聞社)

「M-1」ブランドはどのように確立されたのか

12月3日に放送された「M-1グランプリ2017」は、とろサーモンの優勝で幕を閉じた。大会前にファイナリストが発表されると「今年は誰が優勝するのか」という話題で盛り上がり、終わった後には個々の芸人やネタの内容、審査員のコメントや採点についてさまざまな感想や意見が飛び交う。こんなに多くの人が熱くなれるお笑い番組はほかにない。

現在、民放各局では「R-1ぐらんぷり」「キングオブコント」などのお笑いコンテスト番組が存在しているが、いずれも世間からの注目度では「M-1グランプリ」に及ばない。ここ数十年のお笑いの歴史の中で、「M-1グランプリ」だけが超メジャー級の存在感を保っている。このような「M-1」ブランドは、どのようにして確立されたのだろうか。

「M-1」という企画を立ち上げたのは、大会委員長の島田紳助である。2001年、吉本興業では漫才文化を盛り上げるための新たなプロジェクトが求められていた。社員の1人が別の用事でテレビ局を訪れた際に、なにげなく島田紳助の楽屋にも足を運び、その話をしたところ、紳助が興味を示した。そして、紳助の口から「若手漫才師を対象にしたコンテストを開催する」というアイデアが飛び出したのだ。

「優勝賞金1000万円」「決勝戦は全国ネットで生放送」「関西だけでなく全国から参加者を募る」「吉本興業だけでなく他事務所の芸人の参加も認める」――このときに紳助が口にしたコンテストの形式は、今までになかった画期的なものだった。驚くべきことに、この時点で彼はコンテストのネーミングに関しても語っていたという。

「『K-1』の漫才版。いうたら『M-1』や」。

こうして、立案者である島田紳助を大会委員長として、2001年に『M-1グランプリ』が始まった。この新しい形のお笑いコンテストについて、最初は芸人たちも半信半疑だった。だが、予選が進んでいき、大会の全貌が少しずつ明らかになるにつれて、芸人たちの目の色が変わり始めた。

特に彼らを驚かせたのが、ダウンタウンの松本人志が審査員として名を連ねていたことである。今でこそ、「M-1」や「キングオブコント」で松本が審査員席に座っているのは当たり前の光景になっているが、2001年当時はそれが衝撃的だった。1990年代中盤から後半にかけて、すさまじい勢いでお笑い界の頂点に駆け上がっていった松本は、まだまだ現役の王者としての風格を漂わせていた。

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