油性ペンで「マッキー」が圧倒的に強い理由 社長に隠れ「社名変更」「部署新設」する突破力

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フェルトペンにおいて高いシェアを保ち続けるマッキー。多色化を行った以外は、販売当時のまま(写真:ゼブラ提供)

「マッキー」「サラサ」など国民的文房具を多く世に送り出す筆記具メーカー「ゼブラ」。なぜ圧倒的に強いブランドを築くことができたのか。その歴史をひもとくと、強さの理由が見えてきた。同社の創業は120年前の1897(明治30)年にさかのぼる。

国内初の金属製ペン先の開発に成功

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時は、明治時代。江戸時代までの筆・墨文化とは打って変わり、西洋から輸入されたペン先の影響で筆記具の主流は筆からペンへと移行しつつあった。この時期はまさにペンの黎明期。

当時はインク内蔵式のペンはなく、ペン先に逐一インクをつけるタイプが主流だった。ペン文化のなかった日本では、木の軸につける金属製の「鋼ペン先」を生産する会社は皆無で、国内に流通するすべての鋼ペン先が輸入品であった。

こうした状況に着目したのが、ゼブラ創業者の石川徳松氏。文献や資料のないなか、鋼ペン先の開発に取りかかり、輸入品の見よう見まねで試行錯誤を重ね、1897年に日本で初めて製品化に成功。同年3月、ペン先の製造・販売を目的とし、ゼブラの前身である「石川ペン先製作所」を開業した。

ゼブラの前身である石川ペン先製作所が発売していた鋼ペン先(写真:ゼブラ提供)

石川ペン先製作所の開業から66年後の1963年5月、商号を石川ペン先製作所からゼブラへ変更する。実質的に経営を引き継いでいた孫の2代目石川秀明氏が社名変更を決断したが、その案を聞いた初代徳松氏の猛反対にあう。

徳松氏は経営者としての側面よりも技術者としてのプライドが強く、「鋼ペン先の製造を行っていれば、100年は安泰だ」と話していたともいわれる。当時は徳松氏が出社したときだけ社名板をひっくり返し、あたかも社名変更はしていない体で対応していたという。

ゼブラという社名は、実はもともとペン先の商標。初代徳松氏が、シマウマ(縞馬)のように全社員が固く団結し、文化の向上と発展には欠かせない筆記具の製造に邁進することを願って定めた。また、縞馬は斑馬と書き表すこともあり、文と王との組み合わせが文具界に身を置く会社としてふさわしい文字であるとして採用したともいわれる。

総合筆記具メーカーへの転換を目指していたゼブラだが、1949年には「オート」が国内初のボールペン「オートボールペン」の開発に成功。後れを取ったゼブラはインクの減りに着目した。外からはインクの減りがわからなかった当時の常識を覆し、インク残量がわかるボールペンを1966年に国内で初めて発売。

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