習近平は鄧小平を否定し毛沢東に走っている

「中国の夢」に国際社会はどう向き合うのか

毛沢東(左)と鄧小平。1959年山東省にて。この年、毛沢東は「大躍進」の失敗で国家主席を辞任する(Fujifotos/アフロ)

中国では今、10月に開かれた共産党大会で習近平総書記が読み上げた「報告」の内容についての勉強会が全国各地で花盛りだという。

今世紀中葉に「中華民族が世界の諸民族の中にそびえたつ」ことを目標に掲げた習近平の「報告」のキーワードは、「新時代の中国の特色ある社会主義」である。この概念は習近平の「思想」として党の規約に盛り込まれた。それによって彼は中国共産党の歴史の中で「建国の父」と呼ばれる毛沢東、「近代化の父」と呼ばれる鄧小平と並ぶ最高指導者に位置づけられた。一連の人事で習近平の権力基盤は盤石なものとなった。次はその「思想」を国中に広めることで、カリスマ性の確立に走っているようだ。

毛沢東と鄧小平は対照的な指導者だった

中国の歴史を振り返ると、毛沢東と鄧小平という2人の指導者は対照的な人間だった。共産党内の権力闘争に勝った毛沢東は共産主義思想に忠実な教条的人物だった。1949年の建国後は「大躍進」と呼ばれる計画経済を人民公社を軸に推し進めた。しかし、この政策は経済合理性を欠いていたため、成果が乏しく数千万人に及ぶ飢餓者を出したといわれている。

1960年代に、路線転換に挑んだのが国家主席となった劉少奇と、その下にいた鄧小平だった。人民公社方式を改め農業などに個人経営の要素を取り入れた。これによって中国経済は成長を始めた。しかし、あくまでも「思想」にこだわる毛沢東は劉少奇らを「資本主義の道を歩むもの」として粛清した。そして、10年に及ぶ「文化大革命」が始まった。

経済の低迷が続く中、1970年代に入って文革路線の修正を進めたのが周恩来首相だった。周恩来は失脚し地方に追いやられていた鄧小平を北京に呼び戻し、1975年には工業や農業分野など「4つの近代化」路線を打ち出していった。

決定的な転機は1976年に訪れた。1月に周恩来が、9月に毛沢東が相次いで死去した。その後、鄧小平は一時的に失脚したが間もなく復活し、毛沢東路線を主張する勢力との闘争に勝利して権力を掌握した。鄧小平は文革の誤りを認めるとともに、中国経済に市場主義を取り入れる「改革開放路線」を打ち出した。その結果、中国は今日世界第2の経済大国に成長した。

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