ミスター社会人に学ぶ、40歳超でも輝く術 後悔をモチベーションに変えるパワー

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「垣野さんは『インコースのボールは引きつけて、アウトコースは前で打って、全部センターバックスクリーンに入れろ』って言うんですよ。それまでとは反対のことを言われて、最初は『うん?』と思いましたが、やってみたら、何となくわかるんですね。

『インコースのボールを体の前で打つと右に行くから、ボールを引きつけて、バットを内側から出しながら90度の角度をつけてバックスクリーンにたたき込め。アウトコースのボールはバットのヘッドが遅れて出てくるとレフトに行っちゃうから、ヘッドを前に出して打て』と。言われてみると、確かに垣野さんの言う通りでした」

垣野は西郷に中心打者として期待し、どんなボールでも強打できるように説いた。西郷はティー打撃用の台にボールを置き、内角から外角まで横一線に移動させながらセンター目指してフルスイングを繰り返した。そうして習得した新打撃スタイルが、西郷を1段上のステージに引き上げた。

西郷が都市対抗で記録した14本塁打のうち、13本は打撃改造した00年以降に放ったものだ。02年に金属バットから木製バットを使用することにルール変更されたものの、木製で9本をスタンドインさせている。

2009年のターニングポイント

都市対抗では00年に初優勝すると、02年はいすゞ自動車の補強選手として社会人の頂点に立った。03、05年に所属の三菱ふそう川崎、07年には再び補強選手として東芝の優勝に貢献し、“優勝請負人”と呼ばれるようになった。

勝利の美酒に酔ったのは過去に6度あるが、特別な味わいだったのは09年大会だ。前年、不況の煽りで三菱ふそう川崎が活動停止となり、西郷の頭に引退がよぎった。そんな折、ホンダの安藤強監督(当時)から声をかけられる。

「ホンダのユニフォームを着て、都市対抗のホームラン記録を塗り替えてみろ」

当時、西郷は36歳だった。ホンダでは他の社会人チームから選手を取ってくる例が珍しく、社内から反対の声も挙がったが、安藤が説き伏せた。過去2年、ホンダは4番打者に適任者がおらず、苦しんでいた。期待されずに社会人野球の門をたたいてから19年、西郷は求められる選手に変わっていた。

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