反薩長の英雄「河井継之助」を知っていますか 明治新政府が隠した「もうひとつの戊辰戦争」

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そして長岡城は、2度燃えるという運命をたどり、城下もろとも灰燼(かいじん)に帰した。その後、空襲、市街地化などを経て、現在、長岡城の痕跡はまったくない。駅付近が長岡城の跡地だと伝えられるのみである。

北越戊辰戦争が語られなかった理由

司馬遼太郎が河井を主人公にした小説『峠』を書くまでは、北越戊辰戦争を知る人は地元を除けばほとんどいなかった。「薩長史観」で北越戊辰戦争が語られることがあまりなかったのは、明治新政府にとって誇るべき勝利ではなかったからであろう。

小千谷会談で、岩村精一郎と同席していたと称する肥後(熊本)藩士の米田虎雄(後に侍従長、宮中顧問官)は、こう語っている。

「越後長岡の凄惨(せいさん)を極めた戦争は、岩村その人に帰結する。岩村は、しきりに官軍風を吹かせ、無礼にも軍礼を無視したところから、河井に反抗の決意を固めさせた。そのため多くの兵を小藩の長岡に集中し、悪戦苦闘することになった。その間、前後7回の激戦において官軍が勝利したのは、ただの1回にすぎない」

「官軍」側の人間ですら、このような見解なのである。

明治になって長州の品川弥二郎は、同じ長州閥の山縣有朋に対して、「なぜ、岩村のような小僧を談判に出したのか」と責めている。山縣は薩摩の黒田清隆と小千谷の近くまで来ていたのである。品川は、「山縣か黒田のいずれかが会談に臨めば、河井の器量がわかったはずで、北越戦争は避けられた」と難詰すると、山縣は「談判決裂の報が届いて、河井を本営にとどめておくように伝えたが、手遅れだった」と弁解している。黒田もまた「河井と会見していたら、円満に解決していたであろう。残念なことだ」と語っている。

いずれも、河井継之助を敵陣に走らせたことが、北越戊辰戦争の原因となったことを認めている。それほど、この戦いは河井の指揮の下で熾烈を極めたのである。

新政府軍は四十数藩を動員し総兵力は3万人に達した一方で、奥羽越列藩同盟軍の兵力は最大で8000人にすぎない。ましてや長岡藩は、老兵や少年隊、農兵隊などを含めても総兵力1500人ほどにすぎない。実収はもっとあったとはいえ表高7万4000石にすぎず、薩摩藩72万石、長州藩37石、会津藩28万石、仙台藩62万石などに比べれば取るに足らない小藩である。この小藩に手こずり、3カ月にも及ぶ戦いで新政府軍は900人以上という戊辰戦争最大の犠牲を払った。

この無益な開戦と戦争指揮上の責任問題を、明治高官はうやむやにしたかったのであろう。それが、新政府軍が終始優勢だった会津方面の戦いに比べ、北越戊辰戦争があまり語られることがなかった理由ではないか。

来年、明治維新から150年を迎える。「薩長史観」の呪縛を解き、「知られざるもう1つの戊辰戦争」にも光を当てる時期が来ていると思う。

武田 鏡村 歴史家

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たけだ きょうそん / Kyoson Takeda

日本歴史宗教研究所所長、作家。1947年新潟県生まれ。1969年新潟大学卒業。長年にわたり、在野の歴史家として、通説にとらわれない実証的な史実研究を続ける。教科書に書かれない「歴史の真実」に鋭く斬り込む著書が多数ある。浄土真宗の僧籍も持つ。主な著書に『決定版 親鸞』『藩主なるほど人物事典』『新時代の幕開けを演出した龍馬と十人の男たち』『図解 坂本龍馬の行動学』『幕末維新の謎がすべてわかる本』などがある。

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