ノーベル経済学賞、セイラー教授の受賞理由 「心理学」の要素を入れ、現実の政策にも影響

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セイラーは、経済的意思決定に体系的に影響を与える、以下の3つの心理的特性を明らかにしたと、スウェーデン王立科学アカデミーはその功績をたたえた。それは限定合理性、社会的選好、自制心の欠如だ。

「限定合理性」という概念は、ハーバート・サイモン(1978年ノーベル経済学賞受賞)が生み出したもので、人間は認知能力の限界から完全に合理的であることはできないというものだ。セイラーはその例として、金銭に関する意思決定で人間が無意識に行う心理的な操作を「メンタルアカウンティング(心の家計簿)」として理論化した。

それによると、人々は心の中で家計費や娯楽費といった具合に勘定項目を設定することにより金銭に関する意思決定を単純化する。合理的に全体の資産の中での効果を考えるのではなく、狭い勘定項目の中でのやりくりで判断する。たとえば、資産形成の勘定科目から、短期的に必要な支出におカネを回すことは敬遠されるため、全体の資産には余裕があっても余計な金利コストを払ってローンを組んでで支出することがあるという。

数学モデルよりも「現実」を分析するものに

「社会的選好」は標準的経済学が仮定するように、人々は自己利益だけを考えて意思決定するのではなく、公平性や他者の利益も考えて選好することを指す。セイラーは、被験者を使った大規模なゲーム実験で、人々は匿名性の下でも他者に対して公平に振る舞い、他者に不公平に振る舞った人に処罰を与えるためには自分のコストを払うこともいとわない傾向があることを明らかにした。社会的選好は、労働市場での賃金設定にも影響を与えていると言われる。

3つめの「自制心の欠如」は、新年の決意はなぜ維持するのが難しいのかという問題を扱う。今年こそはタバコをやめて健康な体を手に入れると決意したが、目先のタバコについつい手が出てしまうというような経験は誰にでもあるだろう。経済学はこのような問題を異時点間の選択と言い、割引率を使って計算するが、セイラーは心理学を基としたゲーム実験を行い、現実的な割引率の構造を明らかにした。

行動経済学の世界には、「ナッジ(nudge)」(ひじで軽くつつくという意)という概念がある。心理的特性をテコにして人々によい行動を取らせるという意味だが、セイラーがその発案者だ。実際、行動経済学の知見を基に労働者の貯蓄行動を改善させることに成功し、現実の政策にも大きな影響を与えた。

もともと経済学はアダム・スミスの時代から、心理的特性を重視した人間の研究という側面が強かった。それが戦後、自然科学のような「ハードな科学」の地位を目指して高度な数学モデルの世界に移行してしまった。複雑な人間心理を含め、理論の仮定を現実的なものに置き換えていく研究は今後も重要度を増しそうだ。

野村 明弘 東洋経済 解説部コラムニスト

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のむら あきひろ / Akihiro Nomura

編集局解説部長。日本経済や財政・年金・社会保障、金融政策を中心に担当。業界担当記者としては、通信・ITや自動車、金融などの担当を歴任。経済学や道徳哲学の勉強が好きで、イギリスのケンブリッジ経済学派を中心に古典を読みあさってきた。『週刊東洋経済』編集部時代には「行動経済学」「不確実性の経済学」「ピケティ完全理解」などの特集を執筆した。

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