「セックスは善」を世界に普及させた男の偉業 享年91、プレイボーイ創刊者は桁違いだった

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プレイメイトとのパーティーを楽しむヒュー・ヘフナー(写真:ZUMA Press/アフロ)

ヘフナーにとって「性革命」とは、性表現を露骨にすることではなく、米国人を古い宗教道徳から解放し、セックスが「善」であると堂々と主張することだった。

『プレイボーイ』によって、女性の性が商品化され、大々的に売られたのは事実だし、複数の美女との節操のない性生活が彼の家族にとっての理想だったとは想像し難い。しかしながら、以降の米国文化から、かつて性的なものにつきまとっていた暗い罪悪感を拭い去ったという点で、ヘフナーの功績は大きかった。

才能がすべて

1950年代の終わりに、ヘフナーは自らホストをつとめる「プレイボーイ・ペントハウス」というバラエティー番組を制作している。テレビへの進出は、『プレイボーイ』の世界を視聴者に体験させてブランド力を強化するチャンスだった。

このとき、ヘフナーが黒人アーティストのナット・キング・コールやエラ・フィッツジェラルドの出演を企画したことから、南部のテレビ局やスポンサーからボイコットされてしまう。南部ではいまだ人種隔離政策が幅をきかせていた時代だ。だがヘフナーはひるむことなく、全米の半分での放送と広告の機会を棒に振り、番組の第1回に黒人アーティストを起用し、公にかれらと交流することを選んだ。

ヘフナーにとっては才能がすべてであり、愛するジャズ音楽で黒人アーティストを排除しなければならないのは許容しがたいことだった。1960年にオープンした会員制の「プレイボーイクラブ」においても、ヘフナーは次々と新しい才能を見出し、18歳で無名のアレサ・フランクリンをはじめとする黒人アーティストを多数出演させ、メインストリームのメディアで花開くきっかけを与えた。また、「プレイボーイクラブ」といえばバニーガールを生み出したことで有名だが、ジム・クロウ以前の当時から、ヘフナーは黒人のバニーを雇い、黒人客の入会を認めた。

『プレイボーイ』誌の著名人へのロングインタビューが開始されたのは1962年だが、ここでもヘフナーは、大胆な試みで話題となった。第1回はマイルス・デイビス。聞き手はのちに『ルーツ』で有名になる気鋭のアレックス・ヘイリー。1963年には、公民権運動の中心人物の1人で過激な運動家のマルコムXにも発言の場を与えたことで物議をかもした。マルティン・ルター・キング牧師のインタビューの掲載は1965年1月、公民権運動の分岐点となったセルマからモンゴメリーへの大行進の2カ月前だ。

1960年代後半には、『プレイボーイ』誌の発行部数は500万部を超える。社会的圧力によって一時は廃刊寸前まで追い込まれた『プレイボーイ』はもはやピンナップつきのエッチな雑誌ではなく、全米ナンバーワンの文化的プラットフォームとなっていた。

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