関ヶ原の戦い、「本当の勝者」は誰だったのか 教科書が教えない「徳川家康」以外の人物は?

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ほかにも、一度は改易されながら再び以前と変わらぬ所領を奪回した大名、あるいは「家康以上の名声」を勝ち取ることになった大名もいます。

敗者の汚名を払拭

【奇跡の復帰】立花宗茂(1569~1642)
 筑後国柳河(福岡)・西軍 13万2000石→改易

立花宗茂(たちばなむねしげ)は、養父である「雷神」立花道雪(どうせつ)に劣らず武勇に優れ、あの豊臣秀吉も彼を「九州一」と褒めたたえました。

また、彼は武勇だけでなく人格にも大変優れ、そのため「関ヶ原の戦い」では、豊臣への忠義を重んじて西軍に参加し、東軍の近江大津城を攻撃しました。

戦後は、所領をすべて没収されて一時期牢人となりますが、彼の人柄を慕ってやまない全国の大名からのオファーは絶えず、ついに徳川家康自らが彼を召し抱え、程なく大名に昇格復帰しました。

徳川秀忠の代には、筑後柳河10万9000石を与えられ、「西軍所属で旧領を回復できた唯一の大名」となりました。

【名声で凌駕】真田昌幸(1547~1611)
 信濃国上田(長野)・西軍 3万8000石→改易

真田昌幸はたぐいまれな知謀の才能を活かし、武田信玄の家臣時代は「戦国最強」と呼ばれた武田軍を支えました。

信玄の死後は「独立大名」として、家康の侵攻を得意のゲリラ戦で何度も撃退します。

「関ヶ原の戦い」でも、家康の息子、秀忠の率いる別働隊の大軍を信濃国上田城(長野県上田市)で迎え討ち、死守した話は有名です。

戦後は所領を没収され、自身は高野山に蟄居となりますが、対家康の「不敗神話」を維持したまま、1611年に没しました。

真田家では、失った所領は事前に徳川方に配した嫡男信之が受け継いだため、「真田家は実質的に存続」、さらにその弟信繁(幸村)は、後に勃発する大坂の陣で、大河ドラマ「真田丸」でも知られたように家康を苦境に追い込む大活躍を見せ、「名声においては家康をいまも凌駕する」など、まさに「真田の戦略」の完全勝利です。

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