甲子園決勝で「出番なし」の悔いが変えた人生 元近鉄「ピッカリ投法」、佐野慈紀氏の転機

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天理との決勝戦は1点を争う投手戦になり、松山商業は2対3で敗れてしまった。佐野は投手としても野手としても、出場することができなかった。

「決勝まで行ったので、勝ちたかったというのが本当のところです。最後の試合にはどうしても出たかった。監督の指示がないのに、ブルペンで投げたり、ベンチ裏でスイングをしたり。高校3年間でいちばん積極的でしたね」と、佐野は振り返る。

試合に負けたこと以上に、自分が試合に出られなかったことが悔しかった。「宿舎に戻ってから、監督の言葉を聞いてみんなが泣いていたので私も涙を流したのですが、達成感よりも悔しさのほうが強くて……。そのとき、『もっとちゃんと練習しておけばよかった』と思いました」。

「誰よりも練習をしよう」と決めた夜

決勝戦で敗れたその夜、佐野はなかなか寝つけなかった。「どうして決勝戦の舞台に立てなかったのか」「なぜ監督は自分を使ってくれなかったのか」。自問を続けた。「そのうちに自分のせいだと気づきました。レギュラー選手よりも練習したかと聞かれれば、自信を持ってそうだと答えることはできません。エースよりも頑張ったかといえば、全然負けていました」。

佐野はその夜、心に決めた。「もう2度とこんな気持ちになりたくないから、誰よりも練習をしよう。最初から試合に出られるところで野球を続けよう、と」。

進学先は近畿大学工学部に決まった。近畿大学の工学部は広島県にキャンパスを構えており、1967年に創部された野球部は広島六大学連盟に所属している。1984年ドラフト1位で佐々木修(近鉄バファローズ)をプロ野球に送り出していたが、強豪ではなかった。

「当時監督だった本川貢さんに誘っていただいたことが理由のひとつ。もうひとつは小学校と中学校で一緒に野球をしていた幼なじみが進学するから。藤岡は明治大学、水口(栄二)は早稲田大学に行きましたが、私は広島で新しいスタートを切ろうと考えたのです」

大学の4年間で、佐野は飛躍を遂げた。控え投手とはいえ、甲子園のマウンドを踏んだ佐野は、いきなりエースになった。「高校時代に全国トップレベルの選手たちを間近で見てきましたから、『頑張ったら、ここでやれる』と思いました。その瞬間、スイッチが入りました」。

高校時代にいつも「どうせ自分なんか……」とブレーキをかけていた佐野はもういない。ここで「お山の大将」になってやろう、小さな山でも頂点に立てばもっと高いところが見えるかもしれないと考えたのだ。

「広島六大学自体はそれほどレベルの高いリーグではありません。1年生の秋から試合で投げさせてもらえるようになると、全然打たれないので自信がついてきました。3年生になってウェイトトレーニングをするようになって、スピードも上がりました。大学時代はまったく打たれる気がしませんでした」

結果が出てくると、意識も変わる。「その頃に読んだ本のなかで、目標を立てて、それに向かってやることが成長につながると書いてありました。それまでは具体的な目標を掲げることはなかったのですが、プロ野球を目指して真剣にやってみようと思いはじめました」。

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