阿久悠――闇の中の光を歌う、異才の作詞家 戦後日本の大衆文化に一時代を画した革新者

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「歌は狂気の伝達だ」と語っていた阿久悠は、大衆向け娯楽だった”歌謡曲のタブー”を大胆に破った。写真は『人間万葉歌~阿久悠作詞集』(2005年/ビクターエンタテインメント/5枚組)より
グループサウンズ全盛時代、夢の対極にあるリアルな感情を歌った『朝まで待てない』がヒットし、「異端」の作詞家としてスタートを切った阿久悠。その詞は、歌謡曲のタブーを破りながら変遷を重ね、やがて多くの人々の心を打つようになる。時代を見つめ続けた阿久悠の歌詞世界を再考する。

グループサウンズを仕掛ける側として

本記事は『東京人』2017年9月号(8月3日発売)を再編集したものです(書影をクリックするとアマゾンのページにジャンプします)

阿久悠は、戦後日本の大衆文化に一時代を画したイノベーター(革新者)である。歌謡曲の作詞において果たした役割と功績は、漫画における手塚治虫に匹敵すると言っても決して過言ではない。

しかし、長篇ストーリー漫画というかつてないスタイルを開発することで、キャリアの最初期から漫画界の中心的存在となった手塚治虫と違って、作詞家としての阿久悠の評価は、1971年に『また逢う日まで』(尾崎紀世彦)で第13回日本レコード大賞と第2回日本歌謡大賞の大賞を受賞する以前の数年間は、「異端」であり「傍流」であった。

著書『生きっぱなしの記』で阿久悠は当時を振り返って次のように述べている。「作詞を本気でやってみようと思ったのは、『ざんげの値打ちもない』を書いた時である。異端でも、傍流でも、存在を示そうと決心した」。

「阿久悠」という名前は、作詞家が本業となる前、広告代理店に勤務する傍ら放送作家としてラジオやテレビの台本を書きまくっていた頃につくったペンネームである。作詞を手掛けるようになったのも、ビートルズに対する東京からの回答として、グループサウンズ(GS)のブームを仕掛ける側の一員となって日本テレビの音楽番組に参画したことが、そもそものきっかけだった。

ジョン・レノンより3つ年上(1937年生まれ)の阿久悠は、「ビートルズ世代」を自認することはなかったが、ビートルズがもたらした衝撃を真摯に受け止め、「制服を強いるような社会や体制に対して、自由を訴えて抵抗するのが、グループサウンズである」と理解していた。

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