日本の不妊治療の現場に関する「2つの不安」 現場実務を担う「胚培養士」の実情

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「一般的な不妊クリニックでは、具体的にどの精子を捕獲するかは、胚培養士個人の判断に任されています。その選別基準は、図1のような精子頭部が楕円である運動精子=良好精子と考えられ、1匹でも運動精子がいれば顕微授精で妊娠できると語られています。

しかし実際のところ、高度に選別した運動精子の中にも先体の下の部分に穴(空胞)が開いている状態のもの(頭部空胞化精子:図2)や先体が欠損しているもの(先体欠損精子:図3)やDNAが損傷しているもの(DNA損傷精子:図4)等、多様な機能異常を有する品質の悪い精子も含まれています。すなわち運動精子だからといって、すべての付帯する機能が正常であるとは言えないのです。

図1(上段左)頭部が楕円形の運動精子。一般的な染色では精子機能異常までは確認できない
図2(上段右)頭部が楕円形の運動精子であっても頭部空胞が認められる異常精子である場合もある/図3(下段左)頭部が楕円形の運動精子であっても頭部先体(卵子と接着する部分を先体〈せんたい〉という)が欠損している異常精子である場合もある
図4(下段右)頭部が楕円形の運動精子であってもDNA fiberが断片化している異常精子である場合もある(いずれも、黒田医師提供)

どのような品質の運動精子を注入するかが顕微授精による不妊治療の安全性に直結しますので、顕微授精では機能が正常である高品質の運動精子が注入されることが大前提です」(黒田医師)

専門的な話になるが、黒田医師によれば精子頭部の中に空胞がある場合、その部分はDNAの密度が低いことが明らかになっているが、頭部空胞とDNA損傷の因果関係はまだわかっていないという。

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筆者は、某大手不妊クリニックに勤務されている胚培養士から「胚培養士用顕微授精マニュアル」を見せてもらった。このマニュアルは、作業をする際のものとして現場で広く使われているものだという。

専門用語が並ぶ中、筆者にもしっかりわかったことは、このマニュアルは主に「精子を卵子に注入する仕方を解説している」内容であり、全体の中で「精子を選ぶ基準に関する記述がほとんどない」ということだ。つまり、どのように精子を注入するのかは書かれているが、どのような精子を選んで注入するのか、すなわち精子の品質(機能)についての解説はほとんどなかった。

「現場では、この点に関する認識も甘く、顕微授精の手技そのものを医療技術ではないと言い切る医師もいらっしゃいます。しかし、1匹の精子を選ぶことは命の選択になります。また顕微授精は、卵子における『微小細胞外科』という概念に入りますので、生命を誕生させるという大変に責任が重い医療行為になると考えられます。医療行為には必ずリスクが伴うのですから、顕微授精だけが例外ではありません。ぜひ、ここでもう一度よく考えてみてほしいのです」(黒田医師)

顕微授精に代表される生殖補助医療の実施にあたり、安全な医療サービスを保証するために、胚培養士が卵子、胚に関する学識とともに精子に関する高度な知識と技術を習得すること、そしてそれを客観的に担保する胚培養士の公的資格制度化が早急に求められているのである。

草薙 厚子 ジャーナリスト・ノンフィクション作家

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くさなぎ あつこ / Atsuko Kusanagi

元法務省東京少年鑑別所法務教官。日本発達障害支援システム学会員。地方局アナウンサーを経て、通信社ブルームバーグL.P.に入社。テレビ部門でアンカー、ファイナンシャル・ニュース・デスクを務める。その後、フリーランスとして独立。現在は、社会問題、事件、ライフスタイル、介護問題、医療等の幅広いジャンルの記事を執筆。そのほか、講演活動やテレビ番組のコメンテーターとしても幅広く活躍中。著書に『少年A 矯正2500日全記録』『子どもが壊れる家』(ともに文藝春秋)、『本当は怖い不妊治療』(SB新書)などがある。

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