神宮球場をトコトン盛り上げる名脇役の実像 パトリック・ユウは挫折を乗り切り悟った

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最初は、先輩たちの選曲のやり方、照明の操作など、すべてを見よう見まねで、「盗む」つもりで張り付いていましたが、そのうち、わからないことは積極的に尋ねるようになっていましたね。母は「悪いことさえしなければ、あなたの好きなように」と、優しく見守ってくれていましたよ。

阪神淡路大震災で生き残った自分にできること

――一目惚れしたDJの道を邁進されます。

パトリック氏:本当にご縁に恵まれていたな、と思います。見習いから1年後に他のお店からもお声が掛かるようになり、その後DJだけでなくお店の運営部分のお仕事にも携わったり、イベントのMCなど、徐々に活動の幅が広がっていきました。もっとDJを極めて、インターナショナルスクールで身につけた英語力もいきたいと考え、ラジオの制作会社などにデモテープを送り、それがきっかけで、一本のラジオ番組を地元KISS-FM神戸で持つことになるなど、その間約10年、順調にDJ人生を歩んでいました。

ところが、ラジオDJデビューした翌年の95年、突如、DJ人生が振り出しに戻るような大きな出来事が起こりました。年のはじめの17日に起きた、阪神淡路大震災です。ぼくが当時住んでいた場所は、神戸市の長田区で、市内でも特に被害が大きいところ。ぼくの実家も半壊しましたが、かろうじて自分を含め家族は無事でした。

前年から担当していたラジオ番組も含め、すべて緊急災害情報番組に切り替わり、ぼくたちも交代で局に泊まり込みながら、災害情報や生活情報などを伝えていました。発信側も、リスナーも被災者ということで、みんな必死になって自分ができることを探していました。

この時の体験は、「好き」で始めた自分のDJという仕事に、それだけでない「意義」や「覚悟」を考えさせられる、大きなきっかけとなりました。DJである自分にできること、やらなければならないこと、そしてリスナーから求められていることは何なのか。それまでは正直、憧れだけで10年近くやっていましたが、それからは、エンターテインメント業界で生きる意味、そして、何かを人に伝えることの重要性についても考えるようになりましたね。

30代ではじめて味わった挫折

パトリック氏:震災以降、自分の役割について何度も自問するようになったぼくは、前にも増して、DJという仕事に前のめりになって取り組むようになりました。「もっとリスナーのためになる番組を作りたい」。そのためには、番組づくりにも積極的に参加できるよう、早く影響力も持つ必要がある。人より何倍も勉強して、3年かかるところを1年で吸収しないといけない。また、リスナーのためになると考えたら、業界のルールをも無視して、自分のスタイルを貫く……。ところが、その焦りに追われた「頑張り」が、今思えば周りの状況が見えない空回りの原因だったんです。

本当はその前にもっと自分の話術を磨くなど、DJとしてやるべきことは、たくさんあったはずなんです。けれど、当時はそれが見えていなかったんですね。無我夢中も大切なことですが、それだけだとうまくいかないこともあるんだなと思っています。そうして、ぼくのDJという仕事、番組づくりへの気持ちとは正反対に、当然のように周りの反応は悪くなるばかり。うまくいかない苛立ちから身体も壊し、自律神経失調症と原因不明の腹痛で精神的にもボロボロ。とうとう心が折れ、「プチッ」と、糸が切れた凧のようになってしまいました。

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